『話の話』を記述する(その17~詩人)
テーブルの左端には詩人が椅子にまたがっていて、椅子の背もたれに両腕を抱き込み、その両腕の上に頭をのせたまま思案顔なのか夢想顔なのか、猫の方を見ている。
カットが切り替わって詩人のバストショットで切り取られる。
切り替わる前と同じ詩人のパーツ(頭部・腕部)が使われている。
この寄りのショットのために別立てに詩人の頭部が新たに描かれたとは思えない。
実際、素材(頭部)をそのまま接近して使っているので、詩人の頭部を描く線描の解像度は悪くなっている。
そして、詩人の周囲を、先ほどのカットにはない半透明の靄が褐色に取り囲んでいる。
言いそびれたがこの「永遠」のシーンは、クリーム色の地の色調に、褐色の線描だけで出来ている。
もの思う詩人のバストショットは一瞬で、すぐにまた詩人の全身ショットを含んで、より引いた絵になって、テーブルを全景の中央に見せるシーンに切り替わる。
ズームアウトしている。先程詩人の足元に見え隠れした竪琴が視界に入っていて、詩人は軽やかにその竪琴を手に取り、続いてテーブル上のペンをとる(そのときズームは終わっている)。
猫だけでなく竪琴もペンも自在に、静止した状態から動き出す。
詩人は画面から向って左手に向いていたのが、竪琴とペンを手に取る瞬間、右手に身体を向け変える。
左から右に向くとき、その中間の向きの姿形の絵は入れていない。
その結果、この詩人の立体感は失われた印象を与える。
それでいいのだ。
カットはまたアップになりテーブル上の空白の紙を映し出し、その紙に(画面には見えない)ペンからしたたり落ちたインクが垂れて染みをつくる。
次の瞬間、詩人の全身像に戻るがアクションは切り替わっていて左向きになっていて両手に持った束になった紙をつかみ、引き裂き、放り投げて、脚を振ってその紙くずを蹴り捨てる。
と、その蹴った脚を上げたまま左から右に向けて姿勢が変わる。ここはちゃんと立体的に動きの中割りをしている。
さきほど平面的と見せかけて、ここでは立体的な動きを見せて見る者を驚かす。
驚かすだけでなく、ユーモアが感じられる巧みさがある。
右向きになった詩人はテーブルの前方を足早に歩き過ぎようとして、カメラはスムーズにその動きについていくが、詩人は歩くために上げた脚を上げたまま、立ち止まって、ゆるく背を反りながら片手を額にあてたかと思うと、逆戻りし(カメラも素早く追って)先ほどの椅子のところに戻って、どこから出てきたのかケープをとりだし身にまとい、竪琴を手に取り、椅子の台座に片足をかけ、竪琴をかき鳴らす。
これらの一連の運動は詩想に行き詰まり、なんとか詩想を掻き立てようとする動きだろう。
しかし悲壮感はない。ユーモアがある。
詩人の横でテーブルにべったり寝そべり、左手をだらりとテーブルから垂らしている猫の無関心そうな・呆れているような姿も、この詩人の振る舞いの画面の中にしかと映し出されていて、コントラストも活きていると思う。
でいて、この猫は静止しているというのに、実に雄弁でユーモアを際立たせる存在感だ。
カメラはズームアウトしつつさらに左方向へ視点移動を始める。
竪琴をかき鳴らし歌い始めた詩人の左手には大きな木が立っている。
木が画面の中央にきた辺りで、詩人は木の葉叢から月桂冠を取り出して頭にかぶせる。
カメラは左移動しながらズームバックしていて、視線の奥方向に地平線か水平線のようなものが見えてくる。
木は画面の右手に消えていき、土手と水平線の間の空漠とした空間にべったりと巨大な魚がたゆたっている。
いや、土手から上の空間には相変わらず2層の大気のような・靄のようなものが映っているので、さほど空漠とは見えない。
むしろこのアンバランスに巨大な魚は空漠な空間(海?)で、これは泳いでいるのだろうか。
むしろ浮いているという感じだ。
大気1と大気2の層の間に魚が挟まれているのがわかる。
そして身をゆったりとうねらしている。
仔細に見るとこの魚は胴部と尾ひれのふたつのパーツだけで出来ていて、それぞれが異なる揺れ動きをしているだけなのだ。
しかしその動きの巧みさ。
魚のインパクトに驚いているうちにカメラは移動し、土手の流れ沿いには手足をばたばたさせている赤ん坊が乗った乳母車と、その横で作業台にタライを使って洗濯をしている母親がいる。
そのさらに左横に小屋が見えてくる。
(その18へ)
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