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宮崎アニメのおはなし2023(その4でおわり)~とりあえずの結論へ

まずは前回分のリンクを貼っておきます。


「bookを使って、セルがセルをまたぎ、立体的な3層の構造が現れる」例を、もうひとつだけ具体的にあげてみてみましょう。『となりのトトロ』の終盤クライマックスから。

ネコバスが田んぼを走っています。
そしてネコバスが田んぼの間にあった森(book)へとびこみます。
そしてネコバスが田んぼの間にあった森(book)へとびこみます。
ネコバスは森の中に隠れた後、手前の田んぼへ突如現れます。

 これをセルの重なりとして図解すると、こうなります。

 ネコバスの走る田んぼの経路上に、こんもりした茂みを形成するbook①と、大地の高低差がつくる窪みがあるわけです。ネコバスはまずAセルとして走っていて、茂みというbook①に突入して、Bセルへと変じて空間の手前に現れるという、空間的なトリックが使われています。
一連の運動を、横から見た「断面図」を見ると(下の図ですね)茂みのbookの中へと(ネコバスが)フレームから一回消えたあと、そのまま手前の田んぼへと駆けあがってきて・いきなりカメラの間近に表れてきます。そのときネコバスはbook①を「またいでいる」のでAセルからBセルになっています。
 断面図のとおり、空間が「手前・中間・奥」と3層に分けられているのがわかると思います。

 さきほどの『魔女の宅急便』では、前景と後景の間に柵のセルが(正確にはbook=ブックという素材ですが)それが挟まれていました。
 それに対し、トトロのネコバスの場合、book①を通過することでネコバスはAセルからやはりBセルへと変じるのは、先ほどの『魔女の宅急便』の説明と同様に考えていただいてかまいません。しかし田んぼの窪みの高低差を踏破するときは「またぐという動作」をして・いないのです。つまり「Bセルから、Cセルへと・またぐ」ということが起こっていません。BセルはBセルのままです。

 なぜ、田んぼの「窪み」に対しBセルはCセルへと「またがなかった」のでしょうか?
 それは「組み線(くみせん)」という表現方法を使っているからです。ここで新しい表現が現れることになります。つまり「人物なりキャラなりが、奥から手前へと空間をまたぐにあたり、セルを置き換える必要が・ない方法」それが「組み線」なのです。その技法を使っているので、窪みの高低差では「またがない」のです。

 いきなり抽象的な言い方で新しい表現技法を紹介してしまい、理解に苦しみはじめた方もいらっしゃると思いますので、「組み線」の仕掛けを下の図に解説してみました。詳しく見てみましょう。
 
まず「ネコバスと田んぼの窪みが接する箇所」を、作業が始まる前にあらかじめ決めておき、そこに線を引きます。これを「組み線」と言います。下の図の赤線がそれにあたります。組み線の箇所が決まると、作業は作画と背景美術の2つに分かれます。

 背景美術は組み線の箇所だけは、きっちりと「組み線」に沿って田んぼの際(きわ)を描きます。またアニメーターはアニメーターで、ネコバスが組み線の上から現れる箇所だけ組み線に沿って現れるように、厳密に・組み線に沿って、ネコバスを描きます。作画が完成するとセルに色を塗られる仕上げ部門に渡されますが、ここでも組み線にそって忠実に色塗りが行われます。
 このようにして作画と背景美術がそれぞれ別作業をしていながら、目安の「組み線」を決めておいたおかげで、いざ完成したセル画と背景がはじめて・組み合わさって撮影されるとき、見事にネコバスが田んぼの窪みに沿って現れるという効果が現れるのです。
 
 あらためて振り返れば、ネコバスのカットは「book」だけでなく「組み線」という「合わせ技」を使っているわけで、そのぶん画面を完成させるには独特に緻密な作業が必要です。実際このカットで使われた素材の組み立ては通常のカットに比べて複雑になっているのです

 ちなみになぜ窪みの部分をbookにせず、組み線を使うことを優先したのでしょうか。
 ヒントは高低差のある窪みです。
 
 答えを言いますと、下の図に示したように、地形に高低差がある結果、ネコバスが窪みの上から現れるとしたら、頭と胴体は見えても、しっぽの部分は隠れているのです。つまりからだの「奥」の部分が背景などで隠れてしまうとき、その「奥」の部分は描かないで済む
 ならば、陰に隠れている部分は「切ってしまって」省略してしまうといいではないか。そういう発想で、たとえば今回の場合、ネコバスの下半身が・田んぼの窪みに隠れているので、大胆に切って省略してしまう。それが「組み線」という手法なのです。
 
 両者の処理の違いを下の図で説明してみました。

 理解に難しく、混乱してしまっている方に向けて、組み線が非常によく効いているケースをひとつ、補助線的にご紹介しましょう。『耳をすませば』からの引用です。
 この画像、塀に沿って「組み線」を切って、少女の上半身「だけが」描かれていますね。

 だいぶ、アニメの見え方に馴れてきたひともいるかと思います。
  いまの「少女が塀をくぐる動作」は「組み線」で処理されていたのですが、もしbookを使っていたらどうなっていたか、比較しながら見てみましょう。

 この「塀越え」をbookで処理した場合
1~塀で隠れて見えてしまう部分も多少、絵が描く必要があるわけです。そして、
2~少女のセルAはbookの背後、bookの「奥」に設定しないといけません。
 
それに対して、組み線で処理した場合、
ひとつに、少女の姿は組み線で厳密に切られた部分だけ描けば済みますし、
ふたつめにその少女のAセルは背景(bookではありません)よりも「上」に置くことができます。

つまり、組み線の利点はみっつ。
1~余計な(見えない)箇所は描かなくて済む。
2~bookを使わなくて済む。
3~障害物(この場合、塀)よりも「上に」セルを置くことができる。
では、少女が塀を越えたらどうでしょうか。そのとき組み線の利点が見えてきます。

 どうでしょう。bookで処理した場合、人物は塀を越えるため、AセルからBセルへとまたぐ必要があります。それに対して、組み線で処理した場合、背景の上に置いたAセルだけで対応でき、とてもシンプルに絵を組み立てられます。
 
 さて、組み線の利点を押さえたうえで、もう一度、ネコバスの場面に戻ってみましょう。
まず、ネコバスのカットでbookを使用したなら、下の図のようになります。

 もし田んぼのくぼみをbookとした場合、すでに森の茂みがbook①だったのでくぼみはbook②になり、しかもbook②をまたぐ必要からBセルになっていたセルはさらにCセルへと変貌しないといけません。つまりこの場合、ふたつの問題が出てきます。
 整理しましょう。
 
 問題1~book②をつくるべきか?
 問題2~セルBからセルCへと「またがせて」いいのか?

  別にいいんじゃないの?と、いうわけにはいかないのです。
 なぜならアナログなセル=つまりセルロイドとは、一見・透明に見えようと、素材として・物質としての確かな厚みがあるわけで、実際セルを5枚、6枚と重ねていくと「そろそろ、セルを重ねた厚みで不透明になってきて、見た目の具合が悪くなるんじゃないかな?」と現場のスタッフは不安になってくるのです。

 だから問題1=「book②を作るべきか」という問いに関しては、book②を重ねたらセルの層の厚みが出過ぎじゃないか?という懸念材料になります。実際、すでにbook①の層と、AセルからBセルへの交代劇も行われていて、セルの層は通常より厚くなっています。
 そして問題2=BセルからCセルへと「またいでよい」か、という問いです。もしbook②をまたがせるのなら、ネコバスの絵をセルBからCセルへと重なりを変える・つまりさらにセルの層を増やすことになります。そのとき問題になるのは、book②やBセル、Cセルのことよりも、さらにその底の層にあるbook①やAセルが懸念材料になります。

 同じ図を再掲します。

 もしbookをふたつも使うのなら、層としてのセルが厚みを増すという、いささか微妙な選択肢になるわけです。Aセル⇒Bセル⇒Cセルと、セルを何重にも・またがせるのは、セルの厚みからくる不透明さゆえに・ネコバスの色合いの感じが変化して見えてしまいそうなので、それを避けたいというのもあります。
 
ということで、bookで処理すると以下のような難点が出てきます。
★まずネコバスがA⇒B⇒Cと、3つの層にわたって・またいで大丈夫か。
★さらにこのやり方だとbookが2枚はさまる。非常に煩雑な作業になります。
★ネコバスは一番下の層から・一番上の層へと踏破するわけで、セルの不透明さの点で発色の問題が起きないだろうか?という危惧がよぎります。
 
それに対して組み線で処理した場合どうなるでしょう。
★組み線で処理した場合はこうなります。

★book2枚で処理したときと比べて、かなりシンプルになります。
★組み線が引けるシチュエーションなので、bookはひとつで済みますし、セルもAからBをまたぐだけで済みます。
★作業の煩雑さもありますが、ネコバスの色合いの見え方という難題も避けられる。
ということで、組み線案が採用されて、いま・ある本編のカットがあるわけです。

 現場のひとは、わたしの説明を聞いて思うかもしれません。
「これ、問答無用の組み線・一択でしょう。Book②なんて話にならない」
そうかもしれません。
しかし、ここであえて、ふたつの表現の選択をめぐって、ややこしい説明をしてみたというのも、表現というものはいつでも
1~効率性
2~美的にどうなのか
この両者のせめぎあいである、ということを具体的に考えてもらいたかったからでもありました。
宮崎駿という・いまや贅を極めた表現が許された作家であろうと、いまも予算とスケジュールと可能な技術との中で・常に審美性と効率性をバランスよく調整しながら表現しているのです。思われているほど審美性・一辺倒でもなくて、ときには天才的な効率性を編み出すことにもまた、その創造性が発揮されていたりするのです。
 ネコバスの画面の・表現技法は以上です。

 ここで最後に、注意点みっつ。
1~組み線はトリックアートです。この発表の冒頭に示したような・だまし絵なのです。なぜそれがトリックアートかと言うと、田畑のくぼみの「背後から・現れた」ように見えますが、実は田んぼの背景より「手前に」描かれたセルなのです。窪みの輪郭に沿って・ネコバスを切り取った形で描かれているので、あたかも窪みの「背後から」・現れたように見えるのです。下の図で示しました。

2つめ。book②にするか、組み線にするか、長々と説明しましたが、それは皆さんがアニメーション表現技法に詳しくないから・あえてご説明したわけであって、実際・制作現場、スタジオでこのカットをつくる打ち合わせをしたときは、もっと簡単な言葉で決まったことでしょう。

アニメーター「ここは、組み線でいいですよね?」
監督「bookじゃないね」
アニメーター「了解です」
この程度のやりとりで決まったと思います。彼らは百戦錬磨の職人なのです。
 
3点目
 そんなに「組み線」って便利なら、『魔女の宅急便』の柵をくぐる箇所も「組み線」にしたらいいのに?と思った方もおられることでしょう。
 その疑問に対しては、柵に対して組み線を切る場合、柵の組みが複雑すぎて、これならbookの方が手間がかからない、そういう理由があるのでした。

 ということで、『魔女の宅急便』と『となりのトトロ』、それから『耳をすませば』と、みっつの作品から、表現技法上、特徴的なカットをご紹介しました。以上でご説明したかったことは3点でした。

1つめ~3層構造が空間を立体的に描き出すこと
2つめ~「セルがセル」をまたぐ結果、現れる3層の空間について(今回はbookの使用例)
3つめ~場合に応じて「組み線」を使い、セルの厚みを減らしながら空間を描き出す方法

 以上、ポイントとして3点ご紹介しましたが、これらはすべて、同じテーマの繰り返しです。
つまり【アニメーションは運動だけではなく、『空間』も独特に造形する力がある】というものです。「独特に」と言いましたが、それはアニメーション「固有の在り方に沿って」という意味です。
あらためてまとめ直せば、アニメーションには「運動をつくる」というご存じの特性がひとつあり、もうひとつに「平ぺったい層の重なりで・イメージを作る」という・あまり注目されていない・もうひとつの特性もあって、これら・ふたつの特性がうまく組み合わさると、「アニメ固有の・空間の立体性」が立ち上がるのです。
今回注意してもらいたかったのは、「空間を3層にわける」ことだけでなく、その3層にわけたときに「層と層とをまたぐ運動」を見てもらいたかった、というのもあります。言葉をかえれば、「平べったい層を運動が立体的に貫くさま」を実感してほしかったのでした。これこそ、アニメの平べったい制約を逆手にとった立体化のポイントなのです。言葉を換えれば、アニメを漫然と見ているより、「アニメはひらべったいものなのだ」と認識しながらアニメを鑑賞した方が、アニメが立体的になった際、よりワクワク感が増すのです。

 それでは、以上のことから何が言えるのでしょうか。つまりセルアニメが「3層」を構成するとなぜ立体的な空間が現れるのか。提唱者であるわたしも長らく謎でした。3層にするとアニメは立体的に見えるのは確かなのですが、それをどう言葉にして説明していいか、分からないでいました。
 しかし今回3層構造を形成するにあたり、「book」と「組み」というまったく対照的な2つの表現例をとりあげて考えることで、いくぶん・分かることがありました。なぜひとは、アニメを観ながら「空間の立体性」を感じとるとき「3層」が必要なのでしょうか。
 現時点でのわたしの答えはこうです。
 ひとは目の前の空間を「手前から奥へ」という漠然とした・なだからな差異しか感じることができないのが普通なのです。
 だから、そうした漠然とした広がりではなく、はっきりと手前なら手前、奥なら奥と截然とわけて認識したい場合、手前と奥とを区切る第3の地点(中間ないしは中景という層)が必要となるからではないでしょうか。
 実際、たとえば東京で山手線に乗ったときに窓の外を流れるビルの群れは何層、何十の層として認識されます。しかしいくら層が重なっていたとしても、基本的な認識構造は3層なのです。ひとは3層で空間を立体的に知覚する。それをアニメという平べったい層の表現にそのまま持ち込んだのが宮崎駿だったというわけです。

 それにしても例にあげられているのが、ほとんどすべて宮崎アニメだったとおり、宮崎駿というアニメ作家は立体的に空間を造形するのが抜群にうまいひとだったのは確かなことでしょう。それにしては「アニメ固有の・立体的空間造形の作家・宮崎駿」と形容されることはなく、それもそうで、いま・この発表をしているこの瞬間、そういう新たな・宮崎駿像を立ち上げようとしているのです。
 しかも、先に述べましたように、これらの空間表現は面倒な作業が加わるカットです。それでいて、具体的に見てもらったように、実際に実現しているシチュエーションとは、少女が柵をくぐったり・塀を乗り越えたり、あるいはネコバスが高低差のある空間を走破することに過ぎません。ストーリーの上で必要もなく、ある意味・別にやらなくてもいい表現であり、些細な描写です。
 にも関わらず、たとえ面倒な手続きが作業として加わろうが、そういうディティールを大切にしている作り手として、宮崎駿がいることが今回・伝わってきたでしょうか?
 実際これほど多彩な工夫をして・空間の立体化にこだわるアニメの作り手は、他にはいないとわたしは思っています。
 さて、ご存じのとおり、宮崎作品の受け止め方は、いまだ作品の「意味的な謎解き」、「解釈の探究」に終始していることは、冒頭に述べたとおりです。
現場を支えるアニメーターたちは、さすがにそれだけでなく、宮崎駿がつくりだした「動き」について多少継承する機運はあります。

 しかし「立体的な空間造形の作家」としてはどうなるのでしょう。今回説明したような技術がアニメ業界でしっかり継承される可能性は、現時点できわめて低いと思います。なぜなら、そんな宮崎駿のテクニックは現時点で、認識すら・されていないからです。
 仕方がありませんが、声があまり世間に届かない・わたしなりに・宮崎駿の「立体性」を、しつこくうったえつづける必要があるでしょう。世間が「謎解き」という解釈学的な「深み」へと邁進するあいだにも、わたしは、「セルの平べったい層を貫くイリュージョン」の継承を願って、何度でもうったえ続けようと思います。
 今回、宮崎アニメを論じるにあたり「遠近法」について理論的な参照が必要だと思いました。例えばパノフスキーやジョナサン・クレーリー、岡崎乾二郎といったひとびとの論が念頭にあります。しかし今回はアニメ制作現場に即した技術の説明を優先し、理論的な参照は発表の内容に含めないことにしました。今回の発表をしたあとに、これを論文にまとめる際に、それら理論的な参照も本格的にしたいと考えています。

 あと、正直、表現技法の説明はうまくいってないように自覚しています。いろいろ工夫をしてみましたが、こういう形で落ち着きました。質疑のとき、わかりにくかった点を教えてもらえたらとありがたいです。

これで発表は以上です。
ご清聴ありがとうございました。

(おわりです。)
 

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