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『話の話』を記述する(その21~このつづきものの基礎的な立ち位置について1)

 このつづきものは、ユーリー・ノルシュテインのアニメ作品『話の話』本編を頭から順々に見ながら、そこに展開される視覚的表現の数々をひとつひとつ説明していくものであった。
 そしてついでに言えば、この論文は「アニメの「てにをは」事始め、その2」という意味合いもある。
 「アニメの「てにをは」事始め」という論文は、商業アニメ作家・宮崎駿の表現と日本のセルアニメを視覚的表現に特化して分析するものであり、ジブリの発行する雑誌にて2021年度に一年間、連載した。
 このつづきものは、「てにをは」事始めの「その2」と言ったのは、日本の商業アニメを分析して得た見解が、非日本産の非商業アニメ『話の話』にどれほど応用適用できるかを検証するものである。

 アニメ論としての、この連載の特性を述べておこう。
 アニメ作品は従来、ストーリーにテーマをからめて分析し、必要に応じて製作背景の情報を召喚したり、作品外の情報に助けを求めながら、作品を鑑賞するというのが王道である。
 わたしはそういう鑑賞態度を「意味的・文学的解釈」と呼ぶ。
 その鑑賞は「意味を解読」するという点で究極的に「人生を、意味的に・豊かにする」上でとても有用な鑑賞態度である。
 「作品の意味を読解して、ひとそれぞれが人生を有用に生きる」のだ。
 さてその鑑賞態度は基本的に「文学向きな」受容態度である。「文学的で・意味的」な鑑賞態度は、小説や詩といった文学特有なジャンルだけでなく、実写映画・演劇・絵画・漫画そしてアニメと幅広く応用可能である。

 しかしそのとき問題になるのは、この万能薬のような効用を持つ「文学的解釈」が、各ジャンルの作品にほどこされてしまったなら、「それぞれのジャンルに固有な特性」が忘却され、その固有性が閑却されてしまうのではないかという事態である。
 本論はだから、「アニメに固有なもの」を抽出してアニメを「見直す」ための試みになる。
 『視覚的表現』として見たときに、実写映画や漫画、演劇、絵画といった隣接する視覚的(でもある)ジャンルとも重ならない、まさに「アニメに固有」な「表現」だけを見て取ることに心がけてこれを書いている。
 本論は視聴覚(映像と音の)ジャンルであるアニメに対して、特に「視覚的」な特性に注目する。
 聴覚に関わる表現、あるいは視覚と聴覚がクロスして起こる表現に対してはこの連載ではあまり注意していない。それはまた誰かが綿密に行ってくれればいいと思う。
 わたしはわたしに出来ることをやるだけだ。

 次に、あらためて本文にに戻る前に改めて言っておくべきことは、なぜ『話の話』というアニメ作品を特別に取り上げたか、その理由だ。
 『話の話』がどのように驚異とともに鑑賞・受容されたかは、クレア・キッソン著作『「話の話」の話』や高畑勲の書いた冊子『「話の話」』を読めばその驚きの共通了解は明らかだ。

 それは「わからなさ」だった。

 先ほどアニメの読解方法として「意味的・文学的な方法」が槍玉にあがったが、熟達したアニメの鑑賞者たちが誇る、その磨かれた「文学的読解」の方法が『話の話』というアニメにまったく通用していないことに論者たちは驚きを表明している。
 しかしだからと言って彼らはまったく無策にこの作品に対していたわけではなかった。
 キッソンはロシアのアニメ事情やその歴史を知り、ノルシュテイン自身にも聞き取って、製作背景を調べて作品を理解しようとする。
 高畑は綿密に細部を読み取って作品の総体的な理解へとつなげようとする。現在最新の『話の話』論の書き手である土居伸彰の著書『個人的なハーモニー』でも『話の話』を「一個の謎」として位置づけた上で、アニメーション概論とでも言うべき浩瀚な論で囲繞するように『話の話』を外郭的に輪郭を定めようとしている。

 『話の話』が制作されて四〇年以上経っても、その「わからなさ」は解消されていなさそうだ。

 しかし論者にはまったく、この態度が不可解だ。
 『話の話』には「謎」などない。
 あるのは豊富すぎる「アニメ固有の表現」の数々だ。
 「意味」をこの作品に探っている間に、その汲み尽くせぬ表現の数々は目の前を素通りしていく。

 私はアニメに対して異邦人かも知れない。
 わたしはアニメに意味を求めて人生を豊かに彩る気持ちはまったくない。
 数々のアニメに接してただその表現の可能性に敏感でありたいだけだ。
 すぐれたアニメは圧倒的な表現でわたしを驚かす。
 拙いアニメはわたしを無表情の苦痛で苛む。

 ここでひとつ言えることがある。
 「意味的な・文学的な」鑑賞態度は「アニメとして出来がいいか/そうでないか」が判別できないことである。
 いや本当はひとびとは「出来がいいか、そうでないか」を知っている。
 「拙く・意味が豊富な」アニメと「豊穣で・シンプルな」アニメの違いを直感的に知っていて、アニメとしての「出来の序列」をつけている。
 「ランキング/ベストテン」という序列判断が現にある。
 ランキングに高く位置づけられるのは、意味的にも・表現的にも、両側面で豊かなアニメなのだろうと思う。


面倒くさい文章が長々と続いたが、この「そもそも論」を読んだ方が、このつづきものが書かれる動機が読み手に伝わるかもしれないと思い、書いた。
ここでつづきものとしての「21」は終わる。
が、「22」も「そもそも論の、その2」として言っておくことがある。
どうかお付き合いねがいたい。

その「22」はこちらから。


このつづきものの、一覧はこちらから。


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