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踏み外して~ジブリ私記(9)

★01
 最近は隔週で文章教室を受講するために東京と松本間を日帰り往復している。教室が開かれる前にちょっと時間をあけて東京に着いて、必ず書店とタワレコに立ち寄る。めぼしい本もすぐ買わず、記録しておいて、松本へ帰ってから地元の図書館や大学図書館にないか、確認する。なにしろチェックしているのは学術書なので、3000円は平気、6000円とかある。ネットで情報を集めたり、図書館で現物を確かめておかないと、失敗を落手したときの呆然といったらない。
 タワレコはクラシックのCDを買いに。しかし最近、自分にとって大事な曲はたいてい手に入ってしまい、そうなればもう、同じ曲の別の演奏家を試しに買うか、よりマイナーな曲を物色するしかなくなった。だから何も買わずに帰ることも増えた。
 ここのところ、ディスクユニオンに寄って、テクノのCDを探すようにもなった。テクノ、エレクトロ、いろいろ名前があるが、EDMという呼称もできたのは迂闊に最近まで知らなかった。今回は「ハード・ダンス・アンセム」という2枚組を購入。ラインナップを見るとが見た覚えのないアーティストばかり。テクノにも幅広い「派」があるので、これは自分の知らない派閥なのだろうと思い、安かったので買って帰った。聴くのが楽しみだ。
 文章教室を渡り歩いて数年、ようやく、東京(主に新宿)の街並みを楽しめるようになった。若い男女ならではなファッション(自分だったら取り入れないセンスだ)、ひとの歩くスピードの緩急が織りなす群集の群れ、ほとんど気にとめない大音量の宣伝メッセージ、あり得ないスニーカーの値段。
 文章教室が終わり、今日は先生を交じえて会食した。その話題のひとつにコンサートの話が出て、関係者である受講生からおすすめの席種を教えてもらう。ふっと千葉に住む甥っ子のことを思う。知覚過敏と睡眠障害で学校を登校できていない中一の甥っ子。一族の血が遺伝してしまったのだなと思う。母親は戸惑い、父親はイライラしている。その緩衝材のように何か刺激を与えたいとぼくは思っている。このコンサートに甥っ子を連れて行ってやりたいなと思う。
 ぼくがクラシックに目覚めたのも、高校2年のとき父が招待券をもらって行ったヴァイオリンとピアノだけのコンサートに行ったからだった。前後の曲目はまったく忘れている。ただ不可解なメロディと妙な緊迫感のある曲だけは明確に覚えていて、それから数年後東京に移住して新宿の新星堂でその名を冠したCDを見つける。ウェーベルンの弦楽四重奏。そしてそのCDで同時にベルク『抒情組曲』を知る。演奏はジュリアード弦楽四重奏団。そこからぼくはカルテットを聴き始め、現代音楽もこつこつと聴き集めた。その道の過程で、高校生だったぼくが松本で聴いたウェーベルンを弾いたヴァイオリニストがキュッヒルだったことも知ることになる。
 そんな生涯のノイズになるような刺激を甥っ子に与えたい。甥っ子は不登校という形をとってノーマルな道行きから外れていくだろうと思う。ぼくは30歳を過ぎてから、自分ひとりで精神障害の対処をしてきたが、何度となく孤独な決断をして、そのたびに治療の漂流過程を悩まされてきた。甥っ子やその家族は折り合いの道にたどりつくまでどれだけ年月を費やし、漂流するのだろうか。よほどの頓珍漢な決断でないかぎり、ぼくは彼の治療に口をはさむことはすまい。本人たちの納得があってこそ治療の前進は可能になるからだ。

★02
 上京のこと、甥っ子のことを書いてみた。
 ジブリに直接かかわらずとも、これもまた私記として記録しておきたいことなので書いた。
 何度も書いているが、ぼくの人生が激変したのはジブリが主宰したアニメ演出家養成塾『東小金井村塾』(第一期:高畑勲塾長)に入塾したからだった。
 1995年4月から12月まで開かれた塾だったが、もちろんぼくは塾をとおして異彩な活躍をした。何が異彩だったのかふりかえると、ぼくを下支えしていた教養が、他の塾生だけでなく、塾長の高畑勲にとっても異彩なものだったからなのだったといえる。むしろあの当時アニメファンが知悉していたであろうアニメの基礎教養はなく、また高畑塾長を形成していた(いささか古びた)一般教養とも無縁だった。
 ぼくのそのときの教養は、大学で属していた早大シネマ研究会を根城にしていた。もっと言ってしまえば蓮実重彦を淵源とするような映画的教養だった(高畑さんは蓮実をも毛嫌いしていた)。
 たださらに言えば、ぼくはシネ研の教養からもずれていた。他のサークルメンバーたちは有名評論家の批評内容をうのみにして、そのキャッチフレーズどおりに映画を受容して、したり顔でものを言っていたが、ぼくはそれを一旦わきに置いて、自力で新しく映画を観ようと模索していた大学4年間だった。
 もちろんそこから編み出されたぼくの仮説のかずかずは、他サークル員が仕込んでいる有名評論家たちの元ネタに比べれば、教養基盤に欠け、インパクトも弱かった。他のメンバーに鼻で笑われてばかりの4年間だった。
 いまでも忘れがたいのは、ぼくが8ミリ映画をつくって(当時はビデオによる撮影はまだ黎明期にあった)サークルの上映会でかけたとき、上映会の会場で最初から最後まで、笑うところではないにも限らず、大声をあげて笑っていた男がいた。それほどぼくはあのサークルにあって「いじっていい」存在だったのだ。
 それからぼくは村塾を終えてジブリに入社して一年ほどたったころだろうか、休日に特集上映会(ロメールだったろうか)に赴いて、作品と別の作品が上映する間の時間、映画館の前の外階段に座って待っているとき、誰かが近寄ってきた。
「石曽根……くん」
 顔をあげると、ぼくの8ミリ映画をずっと笑い声を挙げて見ていた男だった。男はどもりながら言った。
「ジ、ジ、ジ、ジ……ジブリ、なんだよね、いま?」
 卑屈そのものだった。
 ジブリの存在など歯牙にもかけないサークルの雰囲気にいたとは、とても思えない卑屈さだった。
 これが受け売りシネフィルと、コケにされようと自力で言葉をつむぐ者の差なのだった。
★03
 受け売りをよしとしない、となってしまうのは持って生まれた素質というか、生まれ育ちなのだと思う。
 実際、ぼくはジブリをやめてから20数年間ジブリ作品の「見え方」を独自に考え続け、なんでそこまで時間がかかったのかといえば、やっぱり「受け売り」では納得しがたかったからだと思う。
 まあ「ジ、ジ、ジ……ジブリ」とどもってしまった男も、いまは地元に戻ってシャリバリ大学を独自に主宰しているようなので、独自の道を歩み始めたといえる。
 ちなみに村塾への入塾応募には必須作文があって、800字で感銘をうけた映画作品について述べるもので、ぼくはビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』について書いた。何百通きた応募作文のなかでぼくの作文が唯一、高畑勲から「100点ですね」と言わしめたものだったという。応募作文を読んだときから、ぼくはもう半分ジブリに入ったも同然だったのだと、後からわかるのだが。『ミツバチのささやき』はシネフィルたちのオールタイムベストテンに入るような映画だ。もちろんぼくはぼく自身が見つけた論点で作文を書いた。ちょっと家の物置を探せば、その作文が見つかると思う。探し当てたら、またこの私記上でお見せできたらと思う。
 甥っ子も踏み外したなりに、彼なりの道を進めればいいと願う。

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