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『話の話』を記述する(その23~このつづきものの基礎的立ち位置について3)

あらすじで理解する……それで何がわかるだろう?
クレア・キッソン『「話の話」の話』から、あらすじ的な記述を引いてみよう。
【雨の中のリンゴ、赤ん坊が大きな乳房を吸っている。それを仔狼があこがれのまなざしで見つめている。男性の声で子守唄「灰色狼の仔がやって来る」が歌われ、タイトルが現れる。
 大きな古びた木造家屋。突然、超自然的な光が家の奥のドアからあふれだし、カメラを中へズームするように誘い、全く違う別の世界に入っていく。その輝かしさには神々しいものがあるが、この最初の新世界訪問は天国のような理想に沿ったものとは言えない。実際私たちは市営共同住宅で見るような軋轢を目にする。洗濯物をしながら赤ん坊をあやす女性は、遊び仲間と言い争うお転婆な女の子をなだめすかす。この世界には一人の詩人がいる。だが彼は明らかに困難な時期を味わいつつあり、どうしてもひらめきがわかないのだ。一体何が良い詩なのか自分の提案を押しつけようとする口をきける猫は、おそらく詩人の役にはたってはいまい。女性の夫の漁師が立派な魚を抱えて戻って来ると、猫は魚の後をつけるため詩の朗読を止める。魚は驚くほど生き生きしていて、尻尾で猫をはねとばす。画面は暗転する。
  クレア・キッソン『「話の話」の話』P165~166

 あらすじをたどるのなら、これでいいのかも知れない。しかしこの梗概はこのアニメーションが企んだ様々なアニメ表現の試みを、ほぼ皆無に近く言及できていない。この本『「話の話」の話』全体を見回してもそんな試みはされていない。

 この本で紹介されているのはアニメ作品『話の話』の制作上の裏話である。ノルシュテインがどのように構想を練り上げていったか、協力者たちの存在、制作当時のソ連のアニメ業界、それに多少技法的なこと。技法的にはマルチプレーンのことがやはり書かれている。
 しかしこの私の論のように、ではノルシュテインはマルチプレーンをどう使ったかは全く言及されていない。アメリカで開発されたマルチプレーンが光景のリアルな奥行きを実現するために開発されたものであったのに対し、ノルシュテインはまったく非リアリズム的な使用法をしたのは、この論の前回に言及したことのひとつであった。

 『「話の話」の話』のようにノルシュテイン作品を享受するうえで欠かせない情報が満載な本であっても、肝心の「どう見せているか」は明らかにしていない。だからこそ本論のような試みはまだまだ新たなアニメへのアプローチとして存在理由があるのではなかろうか。

(その24へ)



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