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『話の話』を記述する(その18~縄跳びと母娘)

 カット切り替わって、少し寄った距離で母親と乳母車。
 タライに手を入れて洗濯していた母親は片手を額にやって汗をぬぐい、そのままその手を右横の乳母車の取っ手をつかみ、乳母車を揺すって赤ん坊をあやす。


 この間、乳母車は手足をばたつかせる赤ん坊の動きによって乳母車自体が揺れている。
 母親があやすように乳母車を揺らすのだが、そのときの乳母車の、歪んだ輪っかが歪んだままに少し回転する。
 決して適当に描いたために歪んだ輪になっているわけではなさそうだ。
 適当に描いた・落書き感の強い歪んだ輪は、言ってみれば漫画的な表現だ。
 動くことが前提でない表現のはずだ。
 漫画とアニメは混同されやすいジャンルで、この歪んだ輪っかの回転は、その混同をユーモラスにわらっているように見える表現だ。
 そして母親が顔を正面から右方向へ赤ん坊に向き直るときの頭部の動きの付け方にも雄弁な立体感がある。
 細かく言えば、動く顔部と頭髪部の2層になって出来ている。
 頭髪部と動く顔部がうるさく重なっている欠点が確認できる。


 詩人と猫の方に視点が移り変わる。
 詩人と猫はなにか議論をしている。
 議論というより猫がテーブルの上で二足で立って、空白の紙をつかんだ手ともう片手をさかんに振り立てて、詩人に一方的に何かを訴えかけている。


 勢いで猫は紙を後方に投げ捨てると紙は虚空に消える。
 この虚空への消え方も、リアリズムと反リアリズムの境を往還する『話の話』ならではな表現だ。
 おそらく詩人が作ろうと試みている詩作について叱咤激励しているのだろう。
 猫は両手を盛んに動かし、首を伸ばしたり引っ込めたりと、動きとして雄弁である。
 ここまで記述してきて、説明に困難を感じるほど複雑な動きはそれまで出て来ていなかったのだなと思う。
 いま苦労して記述している。
 猫が詩人に何かを訴える動きを描写するにはせいぜい形容的な説明しか手がないと気づく。


 さてそれでもめげずにこれまでの調子で書いていくと、猫に言葉をかけられている詩人は片足を椅子の座面にかけた姿勢のまま、竪琴をテーブルの端に立てかけてその竪琴の上に肘をつき頭をもたせかけて、猫の言葉に熱心に聞いている。
 しかし猫が紙を放り投げた直後、詩人は詩作を諦めたのか身にまとっていたケープ、竪琴、月桂冠を四方八方に放り出して、一気に最初に現れたときのポーズ、椅子の背もたれに手と頭をつく姿勢に戻る。


 ポーズも表情も同一である(アニメならではな特性の、同一の絵で再現する効果)のに、最初のときは物思いをしているような印象だったが、今度はふてくされているような印象だ。
 同一の姿勢・表情が隣接するカットの意味との接続によって意味合いが違って見えてくる、いわゆるクレショフ効果のアニメ版だ。
 しかし「同一」であるとは、実写とアニメーションでは何が違うのではないか。
 宿題としておこう。
 さて、ふてくされた詩人に対して猫はインク壺からペンを引き抜いて、書け書けとそそのかす動作。静止画のペンがいきなり取り外し可能なものだと明らかになる驚き。
 カット尻でペンからインクが垂れる、些細なところまで配慮した視覚的効果。


 画面は縄跳びの方へ。
 これもまた少女が同一の動きで縄を跳んでいるが、ミノタウロスが拗ねたように身体を左に向け、目を見開いて余所を見ている。


 これもまた同一性を再現することによってむしろ差異となる箇所(この場合、ミノタウロスの姿勢と不機嫌な目つき)が際立つ効果を上げている。
 ミノタウロスは縄を引っ張って縄跳びを中断させてしまう。
 彼は立ち上がり、少女の方を見ず、縄を持った腕を垂らしてふてくされる。
 立ち上がる二本の足が、切り絵であることを隠そうともしないパーツそのままが見えてしまっている一方、閉じたり開けたりする目や顎だけ動く口元は切り絵のタッチの中に馴染んでいる。


 洗濯をしている母親が映り、乳母車を揺すってあやしながら、右方向つまり縄跳びをしているふたりに向って、口先だけ動いていて、なにやら忠告めいたことを言ってるらしい。
 ミノタウロスが不満そうに足を踏みしめる。
 少女も口答えして同じように足を踏みしめる。
 ミノタウロスはもう一度足を踏みしめる。


 駄々をこねるふたり。
 足を踏みしめ合う、
 リズムカルなユーモラスさ。
 少女も様々な可動するパーツで出来ているのも見て取れるが、ミノタウロスも可動域の深浅はあれ両手両足だけでなく右耳までも動かしている。
 母親にさらに何か言われて、少女は不満げに左方向に(母親のいる方向に)歩きながら、画面には見えないミノタウロスにアッカンベーして、母の隣に来ると乳母車を乱暴に揺する。 
 揺する動作の(母とは)異なるリズムパターンの提示。
 これもユーモラスだ。


 父親が漁の成果である大魚を抱えて登場。
 先程まで詩に関わる高尚な議論をしていたはずの猫が、動物としての本性をあらわして魚へまっしぐら。

 だがまだ生きている魚に尾びれで画面から叩き出される。
 少女とミノタウロスは仲直りして、今度はミノタウロスが少女に縄を回してもらってぎこちなく片足ずつ跳ぶ。


 急にはしょった記述になったが、この辺りの一連の画面は特に論者が注意を喚起しなくとも見せ所は一目瞭然に思えるからだ。
 ひとつだけ指摘するとテーブルに落下する白紙やぞんざいに手に取られまた置かれる竪琴の、作用―反作用の動きの質感うやも重みの質感がほとんど施されていない点だ。
 しかしそれは作り手の注意不足でないと思う。
 むしろこれら紙や竪琴のペタッとした接触の感触は、まったく不動である静物としてのテーブルとの同質化を狙っていると思うのだ。
 言葉を足すと、いかにもテーブルに接触しましたという感じを出すことはこの場合余計なのだ。
 紙も竪琴も動かされるモノとして扱われながら、基本的には静止するテーブルの方に属していることを示そうとしているように考えられる。


その19へ


一連の記述のアーカイブはこちら。


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