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古市さんと永島さん

ホテルのテレビで、めざましテレビのサッカーW杯ドイツ戦勝利の特集を観ていた。普段テレビを観ないので知らないけど、古市さんというコメンテーターはそんなにスポーツに興味がないらしい。コメントを求められても「皆さんが幸せそうなので。ぼくは特に言うことはありません。」みたいな感じ。永島さんという解説者は熱い魂を持っていて、「1時間何もしゃべってないじゃないですか!」とコメントを求める。もしかしたら、コメンテーターという立場上ダンマリというのは契約上問題があるのかもしれない。しつこく次戦コスタリカについてもコメントを求められ、「コスタリカも、全然余裕で勝てますって感じではないってことですか?」と、興味ないながらも苦し紛れに捻出しました感満載でコメントする古市さん。それに対して、「何を言っているんですか!盛り上がりましょうよ!!」と空気が悪くなるような剣幕で息巻く永島さん。

この日の仕事の空き時間。コンビニの駐車場で、隣に入ってきた名古屋ナンバーのワゴン。おそらくファミリーの長旅で、若い両親はたくさんの荷物の整理にいら立っているようだった。突然「ギャー」と奇声を上げる子ども。火に油を注がれたかのように「うるさい!!何でそんな声を出すの!!」「ごめんなさいは!!」と、怒号を浴びせる父親。

どうしてこういうやりとりになってしまうのだろう?と、ぼくは一瞬考えた。

学校教育の呪縛のひとつに、「みんな違ってみんないい」というのがある。これは、マイノリティを中心とした異質な他者への理解を育む上で有効な考え方であることは認めるが、一方で、自分自身が「損」をしやすい考え方である。コメンテーターとして仕事を引き受けてお金をもらう立場であるにも関わらず、1時間にわたってダンマリの古市さん。「盛り上がりましょうよ!」と鬱陶しい同調圧力を加える永島さん。不快を奇声でしか表現できない子ども。恫喝でしか対応できない父親。ダメな人だらけの現実で、「みんないい」ベースの発想だと、期待と現実のギャップによって自分で自分を苦しめるハメになる。「どうしてこの人はこんなことを言うのだろう」「それでも人それぞれ、あらゆる個性を認めなくては」と、自分で勝手に心の中のモヤモヤを増幅してしまう。

クソって思うようなことを言ってくるヤツがいて、まともなやりとりにならない。その現実は、「どうして」も「何故」もない、世の中のデフォルト状態である。はじめから期待を持たず、「みんな違ってみんなクソ」くらいに思っておく。その程度でおさえておけば、むかつくやつに遭遇しても「こいつもクソだから仕方ない」くらいで済むし、自分で勝手にストレスを増幅させることも激減する。適当に済ませておけばいいのである。

「みんな違ってみんなダメ」(中田考氏の格言)


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