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呼格について

呼びかけの格

 広く知られているようにラテン語の名詞には格変化という概念がある。
 格とは簡単にいえば名詞の文中での意味・統語的な役割を表すための体系で、日本語であれば主に格助詞(「を」「の」etc.)で表される要素である。

 ラテン語の格は標準的には6つあり(主格・呼格、対格・属格・与格・奪格)、主として語尾の変化で示される。一部の語にはさらに地格がある。

 しかしそんな中にあって「呼びかけに使われる」と説明される「呼格」の存在を不思議に思った人も多いのではないだろうか。


呼格という概念

 文中での役割(特に他の語句との関係)を示す要素という格の基本に立てば、文の他の要素から独立した呼格を格とは見なさない立場もあり得る。
 実際に時代や地域や解釈にもよるが呼格は真の意味での格ではないとされることも多かった。
 他の要素からの独立を表す――という解釈もあるにはあるが、格として特殊な存在であることは確かだろう。

 また文法用語としてのπτῶσις 「格」の意味はまっすぐな主格に対する「降下」(つまり傾き)に由来しており、名前や主語の形である主格も古代ギリシャなどでは狭義の格とは見なされないことがあった(高津1979, p.248)。ラテン語のcāsusはこの訳語である。
 (もっとも主格が基本形というのは役割上の話で、語形変化の基本は語幹であり、語形的に見ると主格から他の形が作られるとは限らない)。

 そしてそうした「呼格の孤立性」という性格は様々な学者の言及するところであり(高津2005, pp.200-201; 松本2006, pp.112, 135-136, etc.)、言語によっては用法に限らず発音、語順の扱いにもそれが反映されていることがある(後述)。

 機能的に主役の格であり物事の名前文中の主語に使われる主格とどう違うのだろうか、というのも多くの学習者が抱く思いだろう。
 (実際に主格と呼格の形の合流傾向はラテン語を含め様々な印欧諸語に見られる)。

 呼格は「~よ」を表すという説明は主格との違いをわかりやすくするための便宜的なものであり、日本語でも「よ」をつけなければ呼びかけができないわけではない。
 現代の口語なら名詞単独形のほうが普通だろう。
 (日本語では主格は∅(副助詞「は」との併用時etc,)または「が」(焦点や従属節主語のときetc.)で示されるが∅を基本と解釈し、詳細は省略する)。


呼びかけの形

 しかし印欧語学では呼格が一応は独立の格として認められてきた。
 理由としては主格と呼格で形が違う語があったからというのが大きい。

 印欧祖語の有生(→共性・男性・女性)名詞の単数形では通常、主格は*-s、呼格は*語尾(無語尾)で示されていた(無生→中性では共に*∅)。
 (また語幹末が*rの有生名詞では単数主格で*-sがつく代わりに直前母音の延長が発生するなど隣接音次第では*-sそのものが現れない例も存在した)。
 有生と無生の違いは簡単にいえば名詞が表す対象の生命や活動性の有無といったイメージ認識による区別である。

 ラテン語の本来語の名詞では大半の変化タイプで主格と呼格が合流しているが(通常は主格由来の形が呼格にも流用)、第二変化(o幹)の-us型有生名詞では単数主格-os>-us(幹母音+s)と単数呼格-e(幹母音+∅)を基本とする違いが維持されている(-ius型では音変化によりさらに-ī)。

animus「心」→anime「心よ」(-us型)
fīlius「息子」→(fīlie>)fīlī「息子よ」(-ius型)

 今回は印欧語族の例を出発点にそんな呼格にまつわる話をしよう。
 そしてそれが言語の歴史の世界への新たな呼びかけとなることを願う。


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