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【ブルアカ】楽園の存在理由──物語に込められる意図と祈り

「あるところに二人の夫婦がいた。美しい男と美しい少女は自然な成りゆきといくつかの偶然を交えながら恋におちた。互いが互いを好きで。それだけで世界の何もかもは、華やぎ。優しくなり。まるでおとぎ話のような時間が二人に訪れる。この世にこれ以上はないというほどの美しい瞬間に、二人は永遠を誓う。
おとぎ話ならここでめでたしめでたしで終わるだろう。けれど、人生はそうはいかない。いつか少女は歳をとり、おばさんとなり、皺ができ、生活の疲れはかつての美しさを蝕み、貧乏は彼女の心を僻ませる。夫とのすれ違いは、彼女の愚痴を多くする。一方の夫も、頭は薄くなり、腹が出てくる。いつでもどこか遠くを見ていた夢見がちな瞳はただ、繰り返される日々の暮らしを映すばかり。
あれほどみずみずしくお互いに満ちていた想いはどこかに消え失せて。二人はほとんど話すことすらなくなりました。いつか見た、あの美しいおとぎ話の面影すら、そこにはない。物語はどこにいった?消えてしまった。」

『魔女こいにっき』(Qoobrand)
(句点・改行筆者)

以前投稿した記事の中で、個人的に使っている「楽園性」なる謎ワードを用いてしまったのですが、これは物語における不条理の薄さを表すような、あるいは物語世界の歪み具合を表すような言葉が見つからなかったために使い始めた言葉です(学が無いだけかも……)。「ご都合主義性」と言い換えても間違いではないかもしれません。とりあえず今は謎ワードという認識で大丈夫です。
兎にも角にも、物語には多かれ少なかれ非現実的なものが含まれていて、そういった現実には起こりえないようなことも描けてしまうのが物語である、というのは皆様もご存知の通りでしょう。本稿ではこういった、物語が持つ作り物らしい部分、非現実的で人為的な部分について『ブルーアーカイブ』のメインストーリーを通して考えてみます。『ブルアカ』を未読・未プレイの方でも読めると思いますが、メインストーリーのネタバレがありますのでご注意ください。



・『ブルアカ』は日常系である

さて、楽園性が表れるもののひとつとして、物語のジャンルが挙げられます。そして、物語のジャンルはその物語の「お約束」に表れます。
そこで、まずは『ブルアカ』のジャンルとお約束について考えてみましょう。

とりあえず『ブルアカ』のジャンルとして挙げられそうなものを書き出してみると、ゲームジャンルならソシャゲやシミュレーションRPG、物語のジャンルなら学園ものやSFやセカイ系などが挙げられるでしょうか。
結構色々な要素を持つ作品ですので、今はまだ「『ブルアカ』と言えばこのジャンル!」みたいなものを挙げることは難しそうです。

では、お約束の方はどうでしょうか。
まず『ブルアカ』のお約束といえばエピソードの最後に出てくる白目の陸八魔アルが挙げられますね(おそらく後ろで「Unwelcome School」が流れてる)。

『ブルーアーカイブ』
「エデン条約編」4章

『ブルアカ』をプレイしていない人でも知っている人がいるくらいには有名なお約束ですが、これはすなわち、どんなことがあっても最後には笑っていられるような結末になるということです。実際問題として笑って見届けられる結末であるかどうかはエピソードや読み手によりますし、すべてを笑い飛ばせることはできないでしょうが、それでもいつも通りの日常へ帰ってくる物語が『ブルアカ』の物語なのだと思います。

そして、もうひとつ。
青空ENDも外せないお約束です。

『ブルーアーカイブ』
「カルバノグの兎編」2章

物語の最後にいつもと変わらない青空が広がっている、というお約束です。(「あまねく奇跡の始発点編」の赤い空が対比的。)
これも先述したような、どんな事があっても日常へ帰ってくる物語としての『ブルアカ』のお約束でしょう。青空が『ブルアカ』の象徴的な要素であるからこそ、私は青空ENDによって「いつもの場所に帰ってきた」という実感が湧いてきますね。

さて、ここで今一度『ブルアカ』のジャンルについて考えてみます。
こういったお約束を踏まえたうえで、先程のいくつか挙げたジャンルを眺めてみると、学園もの(≒青春物語)が、その中でも特に日常系としての側面を併せ持つ学園ものが『ブルアカ』のジャンルとしてよく合うのではないでしょうか。言うなれば日常系青春物語です。ジャンル名自体は何でも良いと思いますが、本項では便宜上「日常系青春物語」の名前を使っていきます。

「青春」と「日常」。
ピンと来た方もいるかもしれません。
そうです、これらは『ブルアカ』のティザーPVから使われているワードです。

「ブルーアーカイブ-Blue Archive-」公式YouTubeチャンネル「【ブルーアーカイブ -Blue Archive-】ティザーPV」

ティザーPVから示されているくらいなので、学園ものや日常系らしい要素の大半は意図的なものだと思います。したがって、本稿では『ブルアカ』を日常系をベースに青春を描いている学園ものの作品として扱っていきます。


・キヴォトスは楽園である

『ブルアカ』のメインストーリーでは、ゲマトリアという組織、あるいはゲマトリアに属するキャラクターによって日常が崩れることが度々あります。それは、本作の舞台である学園都市キヴォトスの危機です。
それでも日常へ帰ってくるのが『ブルアカ』の物語である、というのは先述した通りですが、ゲマトリアのひとりがこのような物語に対してメタ的な言及をしており、この言及がキヴォトスの性質、ひいては楽園性が持っている性質をよく表していました。以下引用です。

ゴルコンダ「……ここが学園都市という概念で存在する限り、先生の存在はわたくし達の存在を凌駕して当然です。それこそが、この物語のジャンル……つまり、この世界のルールです。 わたくし達がこの世界に留まる限り、ルールに逆らう事など──」

『ブルーアーカイブ』
「あまねく奇跡の始発点編」1章

ゴルコンダ「先生……あなたが介入してしまうと、すべての概念が変わってしまいます。元々この物語の結末はこうではなかったはずなのです。」

『ブルーアーカイブ』
「エデン条約編」4章

『ブルアカ』が日常系青春物語というジャンルである限り、あるいはそういうジャンルだからこそ、何があっても最後にはいつも通りの日常に帰ってきますし、非日常の非常事態すらも青春の1ページとなってしまいます。それが『ブルアカ』の世界であるキヴォトスのルールなのだと考えます。したがって、このようなルールを持つキヴォトスこそ楽園と呼べる場所なのではないでしょうか。
そして、こういった祝福とも呪いとも受け取れるような物語世界の歪みこそが楽園性なのだと思っています。

『ブルーアーカイブ』
「あまねく奇跡の始発点編」3章

(ここからは『ブルアカ』メインストーリーの「あまねく奇跡の始発点」以降の内容を踏まえたうえでの話になりますので、未読・未プレイの方は次のセクションまで飛ぶことをオススメします。)
さて、ここまで『ブルアカ』を日常系青春物語として語ってきましたが、『ブルアカ』がこのジャンルであるためには、少なくともプレイヤーとしての<先生>の存在が必要みたいです。<先生>がキヴォトスにいなかった頃のアビドス高等学校での出来事や、いわゆる「プレナパテス世界」の結末がこのことを逆説的に示しているでしょう。少なくともこの2つの例においては日常系青春物語というジャンルが成立していなかったという訳です。このジャンルが成り立っているのであれば日常の崩壊はありえませんからね。
また、このことは物語の内容以外からも示されていると考えています。それはキヴォトスが持つ楽園性のひとつである時間の停滞から示されているものです。時間の停滞は作中での大きな時間の変化がないことから見出すことができ、例えば<先生>がキヴォトスに来てから(『ブルアカ』が始まってから)は生徒の学年が上がることもなければ、身体的な成長が起こることもありません。
逆に<先生>がキヴォトスに来る前(『ブルアカ』が始まる前)は学年の変化があり、時間の停滞はなかったようです(「対策委員会編」3章)。まあ、当然と言えば当然なのですが。また、シロコ*テラーがプレイヤー世界のシロコより成長した姿である理由も、同様に<先生>がいないことで日常系青春物語というジャンルが成り立っておらず、それによってプレナパテス世界のキヴォトスでは楽園性が失われ時間の停滞がなかったからである、と読むこともできると思います。
「ソシャゲだから大きな時間の変化はないのは当然」という考えはごもっともなのですが、そういった作り手による人為的な物語世界の歪みこそ楽園性なのでしょう。この時間の停滞はまさしく楽園性のひとつです。


・物語とは祈りである

ブルアカプレイヤーの先生方はキヴォトスの「七つの古則」における五つ目の古則を覚えているでしょうか。それは「楽園に辿り着きし者の真実を、証明することはできるのか」というものでした。
もし楽園が存在するのであれば楽園の住人は永遠に楽園から出ることはなく、もし楽園から出たのであればそこは本当の楽園ではない(本当の楽園ならそこから住人が出ることはないから)。故に楽園の住人が楽園の外で観測されることはない。そして、そんな楽園の住人の存在を証明することはできるのか、といったような"解の存在しない問い"です。
『ブルアカ』のメインストーリーのひとつである「エデン条約編」では、この問いと同様の"解の存在しない問い"として「他者の心という証明不可能な問題」について扱っていました。自己は他者ではないので誰もが他者を分からない、というのが世の摂理です。そして「エデン条約編」では、そんな他者の心に対する向き合い方のひとつとして「たとえ本質的に他者を理解することできないとしても、唯一他者を信じることはできる」という姿勢を示していました。本質的に他者を理解したと言えるような根拠は存在しませんが、信じることには根拠が必要ありませんからね。解が存在しなくても大丈夫です。

『ブルーアーカイブ』
「エデン条約編」3章

そして、この他者への向き合い方は物語の根本にあるもののひとつと同じであると考えます。
そもそも、物語というのは人が作っているものである以上、人為的なものであり、したがって物語には作り手の意図がたくさん詰まっています。作り手の意図というのはすなわち、読み手にこう読んでほしい、こう感じてほしい、何か考えるきっかけになってほしい、といったような諸々の願いです。しかし、誰もが他者を理解することができないことと同じように、作り手も読み手が作品をどう読んで、作品から何を感じるかを本質的に理解することはできません。すなわち、作品に込められた意図がその意図の通りに読まれているという確証はないのです。だから、物語に込められた作り手の意図とは作り手の願いや祈りでもあると思います。それは言葉ひとつ取ってもそうで、それこそ本稿で使っている「意図」という言葉が私の思っているものとして読まれているかは欠片も分かりませが、それでも「意図」という言葉が私の思っているものとして読まれているようにと願ってやみません。
逆に読み手も作り手の意図を完全に汲み取ることはできず、どうしても臆測止まりになってしまいます。本稿でも「ティザーPVから示されているくらいなので、学園ものや日常系らしい要素の大半は意図的なものでしょう。」と意図を汲み取ったっぽいことを書いていましたが、やはりこれも臆測でしかありません。だからこそ、物語の読み手は「考察」という謙虚な言葉を使いがちなのかもしれませんね。
さらに言えば、解釈違いという言葉に代表されるように、他の読み手が何を考えているのかすらも分からないのですから、究極的には各読み手が各々の好きなように読むしかないのが物語のかもしれません。
それでも、こうやって物語を読む読み手がいるからこそ物語に意味が生まれるのですがね。

「美は見るものによって再び発見される。美は見るものによって生まれ変わる。」

『サクラノ詩 -櫻の森の上を舞う-』(枕)
(句点筆者)

・楽園の存在理由

作り手も読み手も現実に生きている以上、物語は現実に由来するものである、というのは皆様もご存知の通りだと思います。想像や空想も、元をたどれば現実にある何かしらです。
そして、これは逆にしても成り立つことでもあると考えています。すなわち「物語は現実に還元される」という認識です。例えば『ブルアカ』シナリオディレクターのisakusan氏は「キャラクターというのは人間のメタファー」(*1)と述べており、これはまさしく「物語は現実に還元される」という認識のひとつであると思います。
とりあえず、物語と現実は相互的であるという認識を知っていただいたうえで、この先を読み進めていただければと思います。

さて、当然のことながら物語に触れる理由は人それぞれです。それでもその理由の多くに共通しているものとして、現実に対して何か折り合いが付けられていない部分がある、というものがあると考えます。
パッと思い浮かぶ、物語に触れる理由をいくつか挙げてみると
・単に現実だけでは楽しくないから
・現実に蔓延る不条理と向き合っていられないから
・周りに共感してくれる人がいないから
・人間関係が希薄で孤独だから
など色々あると思いますが、どれも現実に対して何か折り合いが付けられていないことがあるからこその理由です。したがって、物語の読み手の多くは意識的であれ無意識的であれ何かしら「現実にはないもの」を求めて物語に触れているのでしょう。例を挙げると、「起きないから、奇蹟って言うんですよ」(*2)という有名なフレーズが示しているように現実では奇蹟と呼ばれることは滅多に起きませんし、多くの人がそれを理解していながらも、それでも起きてほしいと、願われ、祈られている奇蹟がたくさんあり、だからこそ「現実にはないもの」のひとつである奇蹟は多くの人に求められています。また、その結果として多くの物語で奇蹟が起きているのだと思います。
そして、実際に物語には読み手から求められている「現実にはないもの」が含まれています。そもそも「現実にはないもの」が含まれていないのであれば、それはもはや物語ではなく現実ですからね。
このように物語には「現実にはないもの」が含まれていますが、それでも物語は現実に由来しています。だから、物語において「現実にはないもの」を描くには、物語世界を歪ませる必要があるのです(現実に非現実を入れることと同様に)。それが楽園性であり、物語において楽園性が生じる理由なのだと思います。それこそ物語では頻繁に起きる奇蹟も歪みのひとつで、楽園性のひとつです。
また、物語が現実に由来する(物語が現実をベースに作られている)のであれば、物語の中で描かれる「現実にはないもの」は足された部分、すなわち人為的な部分でしょう。そして、人為的ということはそこに何かしらの意図が、願いが込められているはずです。その願いは先述したような読み手へ向けられた願いであると同時に、時に現実世界へ向けられた願いでもあると思います。本質的に他者を理解することできないとしても他者を信じることはできる、ということと同じように、どうしようもない現実が変えられないものだとしても現実が変わるようにと願うことはできますからね。時にそれが、物語における不条理の薄さや物語世界の歪みとして、すなわち楽園性として物語に表れるのだと思います。それこそ、楽園と呼ばれるものは、多くの人がその存在が虚像であると知りながら、多くの人がその存在を願っているからこそ、多くの物語に楽園と呼ばれる場所が存在するのでしょう。


・虚構の中にある本質

ここまで、「物語の非現実の部分」について書いてきましたが、最後に「物語の現実の部分」を扱っていきましょう。先程少し触れた、物語を現実へ還元する話です。

「物語の非現実的の部分」である楽園性が物語世界の歪みなのであれば、歪んでいない部分は「物語の現実の部分」と言えます。先述したように物語の中で描かれる「現実にはないもの」は足された部分であり、逆に「物語の現実の部分」の大半は何も手を付けていない部分(物語のベースである現実がそのままになっている部分)であると考えています。要は「物語の現実の部分」の大半は意図的ではないという考えです。
しかし、中には意図的に描いた「物語の現実の部分」があると思っていて、それこそ物語が語れる本質なのだと思います。『ブルアカ』で言えば、先程触れた「エデン条約編」における「他者の心という証明不可能な問題」は意図的に描いた「物語の現実の部分」にあたるでしょう。まさしく「キャラクターというのは人間のメタファー」という認識ですね。本質的に他者と分かり合うことはできない、というような現実の不条理は、何か理由がない限りわざわざ残して描くことをしないと思うので、これは意図的に現実を残しているのだと思います。
私はこういった部分が物語に触れるうえでもっとも大切で、もっとも丁寧に読むべきところであると思います。私たちはどうしたって現実にしか生きられないですからね。
もしも、現実に対して何か折り合いが付けられていない部分があって物語に触れているのであれば、その時はこういった物語が語ってくれる本質の部分を手掛かりにして現実と向き合うのも良いのではないでしょうか。

執筆者:鯖主


(*1)「ブルーアーカイブ オフィシャル アートワークス2」STAFF INTERVIEWより

(*2) 『kanon』(Key)より

カバー画像:「ブルーアーカイブ-Blue Archive-」公式YouTubeチャンネル「【ブルーアーカイブ -Blue Archive-】ティザーPV」

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