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Class 5: 感謝の暴力

感謝の強要

最近「感謝しなさい」という教員たちの言葉にイワカンを感じる。

「教科書を用意してくれた親御さんに感謝しなさい。」
「許してくれたお友達に感謝しなさい。」
「今あることに感謝しましょう。

テレビを見ていても、質問された芸能人は
「経験させていただく」と言って、
まるで全ての経験が感謝という着地点しかないようにコメントを並べる。

こんな具合に世の中は、感謝の暴力が蔓延しているのだ。

感謝の意が生まれた瞬間は、的確に人に伝わるものだろうか?
もとより、他人に伝えないといけない、というものなのだろうか?

元感謝信者の気付き

何を隠そう。私自身も「感謝信者」の一人であった。

当時私はアメリカ カリフォルニア州マーティネズで家庭教師をしていた。

家庭を取り巻く地域は様々で、中には周囲を警戒しながら歩かねばならぬ場所もある。

そこで私は一つの問いにぶつかった。


虚な子どもの目

その日は、昼食のサンドイッチを買いに出かけた。
その途中、まだ2つか3つの子の虚な目を見た。

手を引く母親は何らかの薬物に侵され、周囲に罵声を浴びせながら歩いていた。

子どもはボロボロになったTシャツと素足が地面につくほど擦り減ったサンダルだけを纏い、ただただ母親に手を引かれて歩いていた。

この瞬間、私の「感謝」への信仰心は打ち砕かれた。
誰がこの子に「親がいるだけ感謝しなさい」などと吐かせるだろうか。


感謝に繋げる力

自分の過去を感謝に繋げられるようになる過程には、様々な感情があるはずだ。
怒り、恨み、憎しみ、喜び、悲しみ。

全てにおいて共通することは、他人に言われて感謝に変えられるものではない、ということだ。

これらの感情を自分の中で反芻していくうちに、人間として成長し、あの経験があってこその自分である、と受け入れることができるようになってゆく。

そこで初めて、その経験に感謝ができるようになる。


感情を感謝で潰すな

全ての感情が感謝に通じるとは限らない。

しかし、何かを感じる権利は誰しもに平等にある。

理不尽と感じる怒りや、理解されない悲しみ、言葉にできないもどかしさ。

子どものうちにしか経験ができない苦しみもそこにはある。
大人はその権利を「感謝」という暴力で塞いでしまわないでほしい。

「感謝しなさい」なんて間違っている。
どんな経験も、誰にも変えることのできないその子の権利である。

「感謝の暴力」にそろそろ気付くべきだ。




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