見出し画像

青に満ちる

もう何度もやめてほしいと伝えているのに彼女は、わたしのカーディガンを着たまま煙草を喫うのをやめてくれない。口が酸っぱくなろうと両耳に胼胝が出来ようと、右から左に馬耳東風。この部屋に灰皿が無いのを見越してか、流煙は全部ベランダに出てから流してくれているだけマシなのかもしれない。土曜日なので、今日は水槽をきれいに洗うことにした。

 冷凍食品をレンジアップする前に、フルニトラゼパム錠を中に落とす。一度、風呂場の浴槽に人魚を抱えて移動させないといけないので、こうして鎮静化させる必要がある。そもそもあまり気性の荒い子ではないから、この工程は必要無いかもしれないけれど、非力なわたしが人魚を抱えて運ぶこと事態がそこそこ大仕事なのだ。こうすることで、わたしが朝食の冷凍グラタンを温めて食べる間に、水槽の人魚が眠って大人しくなってくれる。時間にして三十分だろうか。青色の深くなった水槽の中で、人魚は全身の皮膚と鱗からベンゾジアゼピンを体内へ取り入れる。温めたグラタンを舐めながら、水槽の中が青くなるのを見ていた。彼女がわたしの部屋に入り浸るようになってから、人魚について言及されたことはない。

「この子、××に似てると思わない?」
「どの辺が?」
「目元とか、眠そうなところとか」

 眠そうなのは水槽を洗う時の薬のせいかもしれない。それじゃあ、この子が××に似た顔ばかりするのもわたしのせいなのか。おかしくなって、くふくふ声を殺して笑うわたしを、××は同じくおかしそうな顔をして見ていた。路上に転がる蛇蝎を見下ろすのと同じ温度だった。水面を覆う透明な壁はリノリウムのようにつめたく、指先と頬とを隔てている。

 水槽から眠った人魚を引き上げようとして、「あ」。重力から切り離されて肉体が浮遊するのを感じたのも一瞬、全身から急激に血と熱が失せて、たちまち視界が青色に侵食された。背中に平面状の板が触れて、再びゆっくりと底から浮上する。眠そうな顔の人魚とキスをした。ずっと抱えていた夢想はあまりに脆く、くちびるの触れたところから泡になっていく。はじける様な音と共に消えゆく肖像の狭間で、透明な壁の向こう側、××が嬰児を殺すような表情をしているのを見た。

「ほんとに眠そうな顔するのかな」

 上腿がぶるりとふるえる。人魚にはあしがない。ベンゾジアゼピンが、深い青色が、身体の中から指先まで血の色で塗り直すように、丹念に満たしていく。わたしが人魚になった日も、××はわたしのカーディガンを羽織って、ベランダから煙を流していた。宙に霧散していくニコチンが泡になって、わたしの人魚が雲間へ立ち昇る。



※これは友だちと一緒に眠剤風呂を作って遊んだ日に書いた文章で、哀れなことにモデルとなった実在する友だちがいるので、人名を××としています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?