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スクリーンのなかのスクリーン――『ブラック・ミラー』シリーズ「アークエンジェル」における紋中紋構造


はじめに

 自分のことを大切に想ってくれている故だと分かってはいても、保護者に意志と責任を奪われたくないと考えるのは至極当然のことかもしれない。誰もが自分の「本当の人生」を自分の手で操作したいと、たとえ親であろうとその手綱を奪われたくないと願っている。そのような願望は多くの場合少年たちの冒険譚と成長物語として描かれるが、現実がそうそうドラマティックであるわけもない。いわゆる男たちの物語とは違い、「アークエンジェル」という作品が描き出すのは、娘と母親の間の「ささやかな」すれ違いが、娘に埋め込まれたデジタル装置によってどこまでも肥大化し得るという悲観的な進化論の一可能性である。今回は、その中でも特に「アークエンジェル」のクライマックスシーンにおいて現れる「紋中紋構造」に着目してみたい。紋中紋、わかりやすく言えば入れ子構造やマトリョーシカの構造であるが――このモチーフは様々な作品において、あるいは自然界にも存在するイメージの産物である。例を挙げるならば、アニメのキャラが「この展開アニメっぽい」と発言したり、夢の中で夢をみるという行為も紋中紋の構造であるといってよいだろう。そして得てして、このような神秘的なイメージは人を惹き付けるものではないか。例えば、怪談において合わせ鏡が異界の入り口となっているように。
 とはいえ、今回話題にするのはこのイメージの神秘性それ自体ではない(それと真っ向勝負するのは自分の手に余る)。そうではなく、「アークエンジェル」において登場する「スクリーンのなかのスクリーン」が何を指し示しているのかについて、「人称」をテーマに考えてみたい。そしてなによりこの作品を見てくれると嬉しい。


「ブラック・ミラー」シリーズと「アークエンジェル」

「アークエンジェル」予告編

 Netflixオリジナルドラマである「ブラックミラー」シリーズ、そしてその中の一エピソードである「アークエンジェル」についてネタバレを含みすぎない程度に簡単に記す。2011年より公開されている「ブラック・ミラー」シリーズは、テクノロジーの変化によってもたらされる社会の変化について、特にシニカルな方向性で描き出すSF風の作品である(日本では「SF版世にも奇妙な物語」という評判を良く見かける)。2020年5月時点では全22話のオムニバスで構成されており、基本的にどの話からでも視聴することが出来るようになっている。各話1時間ほどで完結するのも見やすさの一因であるが、食事中に見るような作品では到底ないことを請け負っておく。
 「アークエンジェル」もまた、まさに「ブラック・ミラー」シリーズの王道ともいうべきシニカルさを前面に押し出して作られている。娘のサラをある日公園で見失ったシングルマザーのマリーは、単なる迷子であったにも関わらずそのような心配を二度とせずに済むよう、娘の体内に監視チップ「アークエンジェル」を埋め込むことにする。GPSによって娘の位置は常に分かるようになっており、更に栄養状態やストレスの状態までもパラメータ化されている。娘の視界は「アークエンジェル」に連携したタブレット端末に映し出されており、逆に母親がタブレットからコマンドを入力することも出来る。具体的には、娘のストレスの原因に働きかけ、娘の視界に映し出される原因にモザイク処理を行うことまでできるのである。実際に作中でも、テレビ番組のグロシーンから通学路途中で吠えかかってくる近所の犬まで、ありとあらゆるストレッサーが排除されている。そのような異常性から娘は一度メンタルを病んでしまうのだが、それによって母親も自らの過剰な支配欲の過ちに気付き、タブレット端末を二度と使うまいと、食器棚の奥深くに封印する。
 とはいえ、これが「ブラック・ミラー」シリーズである以上、これでめでたしめでたしで終わるわけがない(一応ハッピーエンドの作品もいくつかはあることは明言しておく)。封印から10年ほどが経ちサラが大学生になったころ、彼女は男友達と遊び始めるようになる。連絡がつかないことを心配した母親マリーは、その気がかりのあまりタブレット端末に手を伸ばしてしまう。娘の視界と同期された端末に映し出されていたのは同じベッドで寝ていた男の裸であり、その事件以来、母親は再びその端末を手放せなくなってしまう。それを知ったサラは母親と離れることを決心し、彼女のとっての「本当の人生」を手に入れることにする、というのが大まかなあらすじである。なぜ「本当の人生」など括弧に入れているのか、それは是非とも自分の目で確認して欲しい。
 さて、考察の対象にするワンシーンが登場するのは、クライマックスにおいてサラが母親と口論する場面である。タブレットのスクリーンの中にそのまたスクリーンがあり、そのスクリーンの中にそのまたスクリーンという状況が起きるのは、当然サラが自分自身でタブレット端末を目にした場合以外他にない。すなわち、母親が封印を解いてしまったという秘密をサラが理解したという事実――それを象徴する重要なシーンなのである。


 
スクリーンのなかのスクリーン

 そもそも紋中紋の意義とは何かと考えてみた時、それは一種の強固な枠組みを設定することである、とまとめられるだろう。例えば「エウレカセブンAO」というアニメにおいてエレナというキャラクターが「無重力空間は作画が面倒なのよ」という発言を行っている。そこでは視聴者が見ているこの世界はあくまでアニメの世界であるという確認作業が行われているのだが、それは言い換えれば、これはアニメに過ぎず現実世界ではないという線を引き直す作業であるともいえる。有名な文学の例で、『フランケンシュタイン』などを挙げても良いだろう。この有名な物語は、実は冒険家が書き記した手紙の回想として成立しているのだが、その手紙の内容すら、冒険家が科学者から耳にした話となっている。すなわち読者の持つ本の物語の中には手紙があり、手紙の中には又聞きの話があるのだ。物語の中に物語が存在しているという構造、これも立派な紋中紋構造ということができるのだが、なぜこのような複雑な構造になっているのか。可能性として浮かび上がるのは、読者からフランケンシュタインを遠ざけさせることではないか。すなわち、幾重にも境界線を張ることで、これはあくまでフィクションであると認知させたかったのではないだろうか。そもそもアニメのメタ発言にどうして笑うことができるのか。それは我々がアニメ世界の外側から、全てを知り得る存在として作品世界を眺められる愉悦ゆえであり、それは現実とアニメの境界がくっきりしているからこそ可能になるのである。
 しかしここで最も重要なのは、我々が余裕でいられるのはあくまで作品の外に定住できるからなのだ。もし強固な線引きの内側に引き込まれててしまえば、我々は物語の魔力に誘惑されてしまうことになる。ヤン・ファン・エイクによる『アルノルフィーニ夫妻像』という絵画は、一見しただけでは、その名の通りアルノルフィーニ夫妻の姿が描かれているに過ぎない。しかしながらキャンバスの中央付近に目を凝らしてみると、鏡にもう一人の人間の存在を確かめることが出来る。これは画家が自らの姿を描いたものと捉えることも出来るのだが、同時に絵画の中で夫妻を見つめる鑑賞者自身であると解釈することも可能である。描かれた凸面鏡によって、我々は絵画という紋中紋の中へ危険な誘因を余儀なくされるのである。

 観察者の位置を忘れてはいけない。横光利一は『純粋小説論』において、「「自分を見る自分」という新しい存在物としての人称」として四人称なるものの定義を行っている。それはいわば幽体離脱的に自らを見るということであり、このとき視線は一方的なものでなければならない。すなわち幽体の自己が目をつぶって伏している自分を一方的に見下ろすということであり、あくまで観察者の位置に徹底するということである。
 観察者の視線が世界の中の人物の視線と合えばどうなるかを教えてくれたのが、水面に映った自分の像を見たナルシスである。静謐な水面に映った美しい少年が自らであることを知らずに恋に落ちた彼が示すのは、分裂した二者の邂逅が究極的な孤独に反転するということである。「ある世界の中における「わたし」を見ている「わたし」」という四人称が、「わたし―あなた」という二人称に回収されたとき、深い深淵が口を開き始めていることを確認できるだろう。深淵というのは大げさだろうか?しかし「アークエンジェル」における紋中紋、スクリーンの中のスクリーンが収束して行き着く先もまた、深淵が如き黒一点ではないか。
 あのタブレットは何を象徴しているのだろうか。娘を過保護なまでに大事にする母親にとって、タブレットは現実の娘そのものよりも「リアル」な存在だったのかもしれない。例えば母親が娘とかくれんぼをするシーンにおいて、娘に見つかった母親が娘をハグしつつも、その手からタブレットを離そうとしないように。そして母親は、自らの意のままに娘を監視し、操作する。娘の視界にモザイクを掛けることによって可能になるのは、娘を自分にとって理想的で最も「リアル」に仕立て上げること、そしてそんな「リアル」な娘との理想的な関係を自らの手で構成することである。とすれば、サラがタブレットを目にすること、それは彼女が母親の世界において創り出されたより「リアル」な自分自身と対面してしまうという紋中紋構造を示しているといえるだろう。そして当然、その分裂した自己の出会いがもたらす先は深淵、暗い未来でしかない。
 しかし唯一残っている選択肢があるとしたら?それはすなわち、サラ自身がその監視装置を取り出してしまうか、あるいは母親を亡き者にして「リアル」な自分ごと消し去るかどうかという選択肢である。しかしその答えは冒頭部分で既に述べられている――「監視装置は一生取り外すことは出来ない」と。
 「片付け」を済ませたサラが家を出て、ヒッチハイクで旅に出るシーンで「アークエンジェル」は終わっている。母親に管理された状態から解放されたサラが、管理を抜け出した外の世界へと飛び立つシーンだと好意的に解釈することも出来よう。様々な危険や冒険にまみれた、けれども自分の責任で生きていける「リアル」な世界へと。しかし、どうして危険な世界こそがより「リアル」だと断言できようか?


おまけ

 時節柄Zoomなどのオンラインツールで話し合いをすることが多くなったが、目線の問題はかなり気になっているところでもある。というのも、画面をまじまじと見つめたとて、画面内の自分の目を見ることは出来ないからである。同様に、他の参加者と真の意味で目線が合うことは決してない。まるで監視カメラをチェックしているかのような、自分が参加しているはずなのにどこか排除されているような感覚を覚えることが度々ある。それは必ずしも悪いことではなく、むしろ自分のような人間にとっては発話のハードルが下がっているように感じる。もしかしたら四人称的な主体(主体というべきではないかもしれない)の効用なのかもしれないと思うこともある。いや普段から人の目を見ろという話なのですが……。

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