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『水車小屋のネネ』を読んで雑記

「それはよかった」
聡は、何か物語の感想を言うように口にした。本当に良かったと思ったのだった。妹さんが中学に上がったら、しまいたい物も増えるだろうし、冷凍室があったらアイスクリームや肉を保存できる。


「すみません、いろいろ話してしまって」
話の合間に、聡が山下さんの話したことを頭の中で時系列順に整理していると、山下さんは何か我に返ったようにあやまってきた。聡は首を横に振った。
「いえ、もっと話してください」
(中略)
じゃあ思い出したらまた話してください。なんでもいいから。いつまでも聞きたい。

「大切な人」という言葉を使わずに、それをあらわす文章すごい。
相手の話から垣間見える暮らしの話に没頭しているかんじ。
つまる、つまらないじゃない、この人の話すことならなんだって聞きたい、というかんじ。

山下さんは本当のことを話している、と聡は思った。その時聡が感じたのは、他人の来し方を耳にすることの気詰まりさではなく、本当のことだけを話してくれるとわかっている人と接する時の不思議な気楽さだった。(中略)聡はあまりにも、自分の弱さを正当化するためだとか、誰かに罪悪感を抱かせるために口を開く人々の言葉を真に受けながら生きてきた。その人たちの保身に、どこまでも翻弄されながら生きてきた。

「本当のことだけを話してくれるとわかっている人と接する時の不思議な気楽さ」。
他愛もない会話がもつ気楽さだけではなくて(というか他愛もない会話でも気楽にならないときある)、こういう信頼感のある、地に足ついた感じの気楽さをもつ人になりたいな。

「よかったですよね」聡はほとんど何も考えずにそう言った。そんなふうに話せることに喜びを感じた。「自分にはもう家族はいません。でも、だからといって何もかも投げ出すことはないんだと思いました」
 今本当に思いました、と聡は山下さんの方に体と顔を向けて言った。

聡と山下さんの関係の深まりを感じる文章。

けれども、山下さんのお姉さんが現れて、自分の生徒と一緒にすごく思い切った生活を始めて、本当に心配でたまらないけれどもなんとか暮らしを立ち行かせようとしているのを見て、自分がその手助けができるんだとわかった時に、私なんかの助けは誰もいらないだろうって思うのをやめたんですよ。

藤沢先生もまた、山下姉妹との出会いで変わったのよね。山下姉妹はなかなかな経験をしているのだけれど、一貫して「可哀想さ」を感じさせないのはこういうところからも。

いつものように、姉は楽しそうだった。この人がこんな様子なら、自分のこれからだって何とかなるだろう、と常に律に思わせてきたおおらかな姉の姿は、律が八歳だった頃と少しも変わっていなかった。

ここもそうね。
こういう親になりたいな。

窓際の椅子に座ってプリンを食べながら、律は行き交う人々をぼんやりと眺めた。(中略)その場にいる人たちは親しい間柄の人もいればそうじゃない人同士もいたけれども、おおむね楽しそうに話したり、律と同じように静かに座っていたりした。
 しばらくの間、自分という人間がおらず、何もしなくていいように感じることを気分良く思いながら、律は去っていった守さんや杉子さんや、この場にいない藤沢先生のことを思い出していた。彼らもその場にいるような気がした。誰かが誰かの心に生きているというありふれた物言いを実感した。むしろ彼らや、ここにいる人たちの良心の集合こそが自分なのだという気がした。

こういう場を。
こういうことを感じられる場を。

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