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[セルゲイ・ロズニツァ]国葬 STATE FUNERAL(2019)

花々は語らぬ顔である

さんざん、これでもかというほどに、スターリンの死を悼む(?)人々の顔を映してきたのに。最後に捉えられたのは、花だった。人々が贈った花。いや、花というよりは草木と一緒になったリースと表現した方がいいかもしれない。レーニン廟の周りに埋め尽くされている花。それをカメラはじっと見つめる。なぜだろうか。人のいなくなったスクリーンに、私は身震いを覚えて、思わず涙が出てしまった。いや…人はいる、いた…いたのだ。花として、花の姿で、言葉を語らない、顔としての花が。

映像が全て終わってはじめて、監督は口を開く。スターリンによって死んでいった人々のことが指摘され、墓から追い出された皮肉を書き、映画は終わる。花は、花は、監督が言うような、そして現代の私たちは当たり前のように知っているような、スターリンの粛清によって死んでいった人々の、顔なのだ。

スターリンに向けて贈られた花が、死んでいった人々の顔と重なっていく。今はもう語ることのできない口なき顔。花という形でスクリーンを占めた時に、本来はスターリンに向けて贈られた花が逆転していく。

私はそのことに気づき、読み取り、受け取り、ただ呆然と、泣きじゃくりながら帰ることしかできなかった。ここにして、ロドニツァ群衆3部作が集結する。ひたすらに顔を写してきた3部作が、最終的には語らぬ顔としての花を写すことで幕を閉じるのだ。(なんてすばらしいのだろう!)

たとえば、「アウステルリッツ」では、幾人かの観光客が見つめていた「最も残酷な部屋」で死んでいった人々の顔としての花。「粛清裁判」では、嘘という熱によって死んでいかざるを得なかった科学者たちの顔としての花。そして、「国葬」では、スターリンのさまざまな政策に振り回され殺された人々の顔としての花。みな、語る口を持たない。だから人間の顔としては表象不可能である。だが、花ならどうだろうか。花として、彼らの存在を考えることはできるのだ。花としてならば、皮肉にも…スターリンへ贈られた花としてならば。

「本当の姿で語っていたのだろうか?」

メインで映し出された人間の顔。彼らは口を持つ。感情を露わにすることができる。だが…それは本当に「語っている」のだろうか。この作品は愚かな人民をそのまま捉えたものでは決してない。国のカメラによって撮影された各地の人々は、「本当の姿で語っていたのだろうか?」ここがファウンドフッテージの面白いところである。意図的な印象操作をされた映像を、さらに印象操作するのだ。スターリンの葬儀に訪れることができた人々は、みな悲しげな表情をしている。しかし同時にカメラをちらりと見ている。人々にカメラへの意識があることを、ロズニツァは逃がさない。各地の人々や、工場労働者を見つめるカメラは、どうだろう。少なくとも、モスクワの人々よりは冷たいように見えた。

しかし…!「本当の姿で語っていたのだろうか?」この質問は愚問である。なぜなら、そんなこと絶対にわかりっこないからだ。ここに映し出された人々全員がスターリン信仰者だったのだろうか?イエスでもあれば、ノーでもあるだろう。信仰というのは個人に委ねられるものではなく、大勢に飲み込まれることで引き起こされる。巨大な何かに身を委ねることで引き起こされる。工場労働者は、汽笛を鳴らしながら作業を止めて黙祷する。それが「本当の語り」である可能性を検討することは決してできない。演技だろうとなかろうと、その問いはナンセンスなのだ。

重要なのは、リアリティだ。スターリンへの信仰、追悼の意、平たくいうと、悲しまなくてはならない!といった強制力に近いところ。それを疑うすべも知らない、それをおかしいとも思えない、熱だ。この熱こそがリアリティであり、人々を取り巻いていたものなのだろう。それぞれの顔についている口で、それぞれの人は何かを語ることができるはずだ。自分のことばで。でも、この熱にうなされてしまうと、自分の口で自分の言葉を言うことができなくなる。大きな口で、一つの言葉を言うのだ。スターリン万歳と。

しかし面白いのは、ここでの人々は何も言わない。口を開いたりはしない。音声は政権ラジオ放送や、指導者のスピーチだけである。あとは決して人々の声を拾うことはしない。それが監督の非常に巧みなところである。だからやはり「本当の語り」である可能性への検討は不可能である。むしろ、「語る口を持たない、口を持つ顔」という可能性が見えてくる。口を持っていても、何も語ることができない。そんな顔だ。それは花になってしまった顔よりも、実は悲惨かもしれない。なぜなら、口を開くときは一つの大きな言葉を言う時だけだから。「粛清裁判」で、銃殺を求めた人々のように。

前半は少し眠気を覚えてしまった。もちろん、いつものようにバイト終わりだからというのもある。しかし、一番の原因が「粛清裁判」も経て分かった。平坦なのだ。人々の行動も、スピーチの内容も。平べったいのだ。おきまりのセリフなのだ。おきまりの態度なのだ。だから、なんら面白くないのだ。(アウステルリッツは同じように見えて違う。なぜなら自分が該当者だからである) 眠気は悪いことではない。私が悪いわけではない。なぜ眠くなるのか。それが一番大事なのだろう。


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