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今朝目覚めた時に、はっきりと確信したのは、あの花はやはり僕だったということでした。

目覚めた時にたしかに花になっていました。それは、ずっと昔に落下して、落ちるところまで落ちてしまい、忘れられ最も深い闇の中に横たわっていた僕であったと言うことを思いました。

それは海の底だったかもしれないし、宇宙の果てだったかもしれません。いずれにしても暗い闇の中で静かに横たわり、朽ちるのを待っていたのだと思います。

昨日の踊りの中で、たぶん最上さんは何度か落下されましたね。

最初は段差を降りる時。

そして次には花の周りを回った時。

そして最後に花のあるところまでも、かなりの落差を落ちました。

それを身を切られるような思いで、僕は見ていたのだけれど、気がついたら、掬い上げられた花が自分であると気がついたのだと思います。

これを書きながら、手が震えます。震わせるのではなく、本当にひとりでに手は震えるんですね。

思えば、最上さんと花は対化でした。そして、その間には次元を超えないと出逢えないだけの空間的な差異があったのだと思います。

あの場合、だからこそ落ちるしかなかったのでしょう。落ちることで無限遠点という最も遠い点が、まさにここであるということを発見されたのだという気がします。

花に「触れる」ことで世界は一変しました。朽ちるしかないと思っていた花が再び生気を取り戻したということは、ある種の錬金術的な行為だったということかもしれません。

踊りを見るという経験は、どこまでも個人的なものなんだなと、あらためて思います。

40年前に、バリの老人の面をつけた舞踏家の踊りにショックを受けて踊りを始めた自分でしたが、あの時は「老人」に叱咤され、頭を金属バットで殴られたかのような衝撃がありました。

昨日の最上さんの踊りはまた別の意味で衝撃がありました。無限の彼方から落下を経て、掬い上げられたわけですから。

落ち切るところまで落ちたから、これが見れたのかもしれません。

原初舞踏の稽古に通い始めて、このところ特に、何度も何度も落下を繰り返し、どこまでも落下しながら、自分を探していたのかもしれません。

一夜明けて、たぶん夢の中でそこにいたのだと思います。目覚めた時に、その花が自分であったということに気がついて、はっきりとわかって、今は胸が痛いです。

そして今動けないでいます。床に横たわり、ゴロゴロしながら、最も深いところに今も横たわっているのだという感じがしています。もう少しこの感覚の中にいたら、そのうち立ち上がるかもしれませんし、動き始められるかもしれません。

何のために踊るのかと、数日前に自問しましたが、そういう意味では、昨日見た最上さんの踊りは、まさに答えを見せていただいたということなんだと思います。

こちらは昨日、帰路に電車の中で書いた感想

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