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「集会」

ユリシーズの「集会」に参加してきました。最上さんの踊りの後、皆で話しましょうという感じで、まさに「集会」という感じ。

最上さんの踊りはとても良かったです。

僕の中に広がったイメージを書かせてもらうなら、まるで菩薩が雲の上から降りてきて、見捨てられ、忘れられ、朽ち果てようとしていた花を掬い上げ、触れることで花は再び命を取り戻し、また泉のようにエネルギーが湧き出てきました。そうして、なすべきことをなして、再び雲の上に帰っていったと言う感じでしょうか。

物理的には10センチほどの段差を降りる時に、菩薩が下を見て逡巡するのを感じながら、このまま降りないまま終わったとしてもそれはそれもしょうがないかと思うくらいに、それはとてつもない高さに感じました。

10センチほどの段差が、何千メートルもの落差に感じたと言う感じです。下に降りることを躊躇う気持ちが伝わってきました。それはあまりに高いし、たとえ菩薩であったとしても危険な行為なのだと思います。

しかし、やがてその一歩を踏み出した時に、大きな振動が伝わってきました。そして大地に降り立った、その第一歩の衝撃が菩薩の身体の中に吸収される時に起こった衝撃もまた、響きとして波のように伝わってきました。その一撃に僕も一緒になって響いてしまって、思わず泣きそうになりました。

掬い上げた、あの花は最上さん自身なのかもしれないし、見捨てられ、忘れられていた、他の誰かだったのかもしれません。そしてもしかしたらそれは僕だったのかもしれません。

花に手を差し伸べた瞬間に嗚咽しそうになっている最上さんを見て、その行為自体が、今この場所で行われるべくして行われた行為だったのだと思いました。まさに、それは菩薩の行だったのだと思います。

踊りの後、参加者の感想や意見を聴きながら、いろんな角度からの言葉を集めることにこそ、この集会の意味なんだなと思いました。さまざまな言葉が新鮮で心があらわれるようでした。

踊りの経験というのは、言葉にできないことですから、いろんな角度からの未熟な言葉をお互いにシェアすることで、何か不可能だったことが可能になるのかもしれないということを思いました。

とても優しくて温かい空間だったと思います。

奇しくも、「落下」のシーンがあり、その落ちる感覚を怖いと感じると言われた方がおられました。

落下することは、最近の稽古の中でずいぶん見つめてきましたが、あらためて自分の中で言葉が湧いて出てきたので、書き留めておこうと思います。

「落ち切れば、反転が起こる。落ちることを恐れ、落ちることに抗うと、いつまでも恐怖は続く。」

そんな感じのことです。

落ちる、落ち切る、どこまでも落ちることに任せてしまったならば、やがてゼロのポイントに到達し、そこで初めて上昇の兆しを感じることができるのだろうと思います。

菩薩はどこまでも落ちることを自分に許したのでしょう。そうすることで、ルシファーがやがてルシフェルとなるように、全き死は全き生につながっていくのかもしれません。

そんなことを感じながら、小川町までの帰りの電車の中で、これを書いています。ひさしぶりの遠出でしたが、思い切って参加してよかったです。

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