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背後

昨年最後の原初舞踏の稽古で、後ろを向いて「背後で踊る」ということをしたんだけれど、今になってじわじわと響いてきてる感じがする。

背後を意識してしばらく踊った後、ゆっくりと振り返る。物理的には振り返っても背後は常に背後で、前は常に前なのだけれど、スローで動きながら、空間に対する意識が変わった状態で振り返ると、そこにはたしかに大きな真っ暗な海があったりして、明らかに何かが起こっていると思うわけだ。

それは結局三次元でなく四次元の身体で回転したということなのかも知れないなと思ったりもする。四次元に出た時には目の前にあるのは持続空間だから、そこに海があっても、砂漠があっても、千のプラトーがあったとしても、何ら不思議はないということになる。

その中で、僕の意識に浮かんできたのは、過去にすれ違ったたくさんの人たちの姿だった。特に、何らかの感情的なすれ違いを残した人が何人か浮かんできて、彼らもまたこの海の構成要素なんだということを思ったのだった。

しかし、この位置から眺める時には感情はなく、淡々と事実だけがあり、そこにはけっして浅くはない縁があったということが感じられて、今もこのような形でつながっているということが、むしろ愛おしく感じられた。

そして、その時に、このようなことを何度か体験していくことで、背後がデフォルトになっていくのかも知れないと思ったのだ。

そういう意味では、キネシオロジーで過去を振り返り、潜在意識を探ることも、同じような要素があったのだけれど、踊りの中で動きを伴いながらやるということが、空間知覚を広げながら、筋肉を巻き込みながら、より深く、より確かな変化として定着するのかも知れないと思ったのだ。

終わった後で、最上さんが「人と向き合う時に、前はきついってことなんだよね、人を受け入れるのは後ろの方が楽なんだと思った。」というような感想を述べられた。たしかに人間は前で向かい合うと、不必要にぶつかってしまうのかも知れない。背中合わせの方が楽に相手を受け入れられるような気がするから不思議だ。

背後がある時とない時とでは、存在の強度がまるで変わるということは、わかる人にはわかると思うのだけれど、こと「踊り」という行為の中では、これは決定的な要素になるのだろうと思う。背後のない踊りは、リズム体操と同じで、とても味気なく思えてしまう。

そういう意味では、踊りというのは、曖昧さを排除して、過去に向き合って、今に向き合って、それらを受け入れられるようになって、初めてトータルな存在としてそこに立てるというところから、ようやく始まるのかも知れないと思う。

それは、人として成熟するということでもあり、存在として濃くなるということであり、背後に裏打ちされた存在として、自己を深めるということでもあるだろう。

過去にすれ違ったすべての人々が背後の正体であり、そこにまだ受け入れられないで避けているものがあればあるほどに、それが存在の強度がないということにつながり、所在ない存在として彷徨うことの原因と言えるのかも知れないなと思った。

たとえ小さな舞台であっても、「踊ります」と言って、舞台に立つと決めた以上、今の自分の存在度合いを突きつけられることになるんだよね。

それをどこかで知ってるから、舞台に立つことを恐れるということが起こるんだろうし、途中で投げ出したくなることもある。稽古だけでいいというのは多くの人が経験していることじゃないかなと思う。

でも、残念ながら、舞台に立たない限り、自分を知る術はないというのも、多分事実なのではないかと思うのだ。そういう意味でも、踊るということはとてつもなく価値のあることだと、あらためて思ったのでした。

この気づきを2024年、年初の言葉として残しておこうと思います。

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