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扇子を反対向きに倒すということは!?

前回の稽古において、扇子を使った稽古で起こったこと。扇子がただの物質から、魂が宿る存在を持った「モノ」へと変化していくプロセスを体験しながら、同時に空間の質感がどんどん変異していく様子がはっきりと感じられて、驚きながらその様子を見ている自分がいました。

その中で内発の衝動があって、身体はゆっくりと動き、扇子自体が意志を持った存在であるかのように、扇子が行きたい方向に流れていくのに従いながら、今起こっていることがすごいことだということは意識の片隅でわかりながら、ただただその流れの中にいたという感じでした。

たぶん稽古場自体の意志があって、そこで起こるべき事が起こったというようなことなのではないかと思ったりもします。あのような濃密で神々しい空間を体験できるなんてことは、本当に身に余る光栄と言いますか、うれしくて、ありがたくてしょうがないというのが正直な気持ちです。

そして、それに加えて、扇子を使った稽古について、ひとつどうしても書き残しておきたいことがあるので、今日はそのことを書こうと思って、これを書き始めました。

それは座ってスローで動きながら、扇子を手に取り、横になっていた扇子を縦に立てるという儀式的行為をしたあと、扇子を開きます。そうしてから扇子を前に倒していきながら、要(かなめ)が向こう側になるように、倒します。

その時、扇子が床に落ちるので音がするわけですが、それも含めてその行為の余韻を味わい、また最後自分なりの落ち着くところに収まるという行程の稽古です。

この扇子を手から離して、投げる、放る、倒す、置く、というような踊りは、バリ島の踊りの中にもありますし、日本の舞の中にも振りとしてそのような所作が含まれたものがありました。例えば、こんな感じです。(画像をクリックするとYouTubeに飛べます。)

バリ島のトゥルナジャヤという踊り
詩舞「事に感ず」より

どちらも、踊っている途中で持っていた扇子を投げたり、放ったりして、床の上に倒すわけです。そしてしばらく舞ったあと、再び扇を拾って舞は続くというような形になっています。

それを踏襲して、僕ひとりで2月中頃にお試しで扇子を使ったスローをやってみたときに、扇子を床に放るということをしてみました。

その時の身体に起こった衝撃もとても大きなものがあり、扇子を手放し、床に落とすと言うことの重大さにあらためて気がついたというような経験となった訳です。それはとても素晴らしい体験でした。

しかし、いずれの場合も投げた扇子を再び自分が拾うということが意図されていたという点では同じだったんですね。

ところがです。先日の原初舞踏の稽古の中で最上さんがこうしてみようと提案されたのは、要(かなめ)を向こう側に向けて倒すという事だったのです。それを聞いた時に、僕の中では少しざわっとしたのを覚えています。しかしすぐにおもしろい、やってみたいと思いました。

反対向きに倒した扇子

そして、その扇子のスローの稽古が始まりました。丁寧に扇子を開いたあと、いよいよ倒すと言うとき、静かに傾けながら、要が向こう側に行くように手を伸ばしていくわけですが、手を離れる瞬間を自分で選ぶことができないと言うことを感じました。ある程度の角度に達したときに、扇子は勝手に手を離れて落ちるのです。そして、コトッと音がします。

その音を聞いて、ついに扇子が手を離れたと言うことに気がつきます。音の余韻と、手から離れて行ってしまったという喪失感と、その時に起こるショックはとても大きなものがありました。ましてや、今回は要を向こう側に向けたわけですから、自分で再び手に取ることはないわけです。

その余韻に浸っているときに、突然驚きと共に、この扇子を取りに来るのは「他者」であるに違いないという事に思い至り、背筋が凍り付くような畏怖の感覚を覚えました。

そう、コトッと落ちたときの音はある意味、他者を呼ぶための合図だったと言ってもいいのではないかと思ったのです。そして、その音は自分のタイミングでは出せません。音が鳴って、初めて自分もその時がきたと覚ると言うことのようです。これは畏れ多い儀式ではないかと思ったのです。

稽古が終わったあと、扇子を反対向きに倒したのはどうしてかと質問すると、最上さんの答えは「さあ、なんとなく、そうしたんだよね。」とのこと。もう、たまりませんよね。ほんと無意識でこんなすごいことを考案されるなんて、信じられない思いでしたよ。

実際、数人の人が並んでこの稽古をしているわけですが、ある時、3人、ほとんど同じタイミングで音が鳴るということが起こりました。ほんの少しずつずれて、コツ、コツ、コツッという感じ。

そのあまりのタイミングに稽古場の空気が一気に締まったような気がしました。本当に奇跡のような瞬間ってあるんですね。

二つ前に書いた記事(扇子を使った稽古)で扇子を頭上に掲げて立つ人の神々しさということを書きましたが、それもその前の段取りと言いますか、丁寧に扇子と繋がり、その場を作るということをしていった結果、最後には、稽古場の空気がとてつもなく濃密な神々しい空間になっていたという事だと思います。

ひとつひとつの行為が、丁寧であればあるほどに、場と人を変えていくのだということを、目の当たりにしたような気がします。

そして、扇子の要を向こう向きに倒した訳ですから、他者の耳にもその音は届いたのかも知れません。他者が現われ、その扇子を手に取ることで次の展開があるのかと思うと、卒倒しそうなくらいに心が震えてくる感じがするんですよね。まさに、交替化の儀式を扇子を使って行なったと言うことなのではないかとさえ思うのです。畏れ多いですが、これって大嘗祭と似たような要素を持っているのかも知れないと思ったりもします。

そして、もしかしたら、他者がその扇子を手に取って、舞ったあと、彼もまた要を反対向きにして倒し返してくるのかも知れません。そうしたら、扇子の向きがいつの間にか替わっているという事になるのかも知れないなとか、ひとりで想像して、鳥肌立てて喜んでいるというのが、今の僕です。(笑)

ほんと、このような濃密な体験を重ねることで、身体は深まっていくのでしょう。このような貴重な体験ができる幸運に恵まれて、本当に幸せだと感じている、おっさんの独り言でした。(笑)

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