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指が揺れるとき

昨日の稽古の中で、スローは少し変わったシチュエーションを取り入れて行われた。いつものようにお茶碗に向き合って座る人の後ろに、その人を見守るように一人が座る。

ともに舞台上手から歩いてきて、自分の場所に座り、見守り手はその後ろに座る。

そして前の人はいつものようにお茶碗に向き合い、ゆっくりとお茶碗に触れ、それを口元に運び、唇を触れ、水を飲む。

そのプロセスの中で、後ろの人がいることで何が変わるのかということ。

この時に三つの視点があって、ひとつはお水を飲む人の内側の視点。次に後ろからそれを見守る人の視点。そしてそれらを前から見ている人の視点。最後の位置は、これが舞台だとすれは、観客の視点とも言える。

そして、今まで通りの普通にお茶碗を使ったスローの経験というのが、ベースにはあるということが前提になる。

お茶碗に向き合う時には、後ろの人の存在が温かく、ドームのように包まれている感覚とも言えるし、二人羽織のようにそっと手を添えてもらっているような感覚になることもあった。

でも、その存在を忘れている時もあった。そんな時には安心して夢中になって目の前のお茶碗に向き合っていたので、お茶碗に対する愛おしさがいつもにも増して強く感じられたかも知れない。

お茶碗から手が離れる時の愛おしさはとても大きく感じられて、しばらくお茶碗との交流を楽しんでいた。あまりに名残惜しく離すのに時間がかかったかも知れない。

その時に指が震え、それはバリ島の踊りで指が無意識で揺れるのと同じメカニズムで揺れたんだということを感じた。指はひとりでに揺れるのであって決して意識的に揺らすのではない。ある条件が整った時には、指はひとりでに揺れるものなんだということを再確認した。

何かお茶碗との間に今までよりもより深い関係ができたのかも知れないと思ったのは、その指の微かな揺れがとても美しく、永遠と言ってもいいような深さを感じたからだった。

その後、場所を交替して、後ろに回り、人を見守る位置に座った。背中を見守りながら、ことが無事に成就することを願っている自分がいて、その時に能舞台で後ろに控える後見(介添人)のことを思い出した。もし、演者に何か問題が生じたら、後見はその舞を引き継いで、最後まで舞いきり、舞を成就させなければいけない。だから、演者が水を飲み、そのゴクリと飲み込む音が聞こえた時に、心底良かったと思った。

また背後霊というのはこのようにして後ろから見ているのかと感じたことも新鮮な感覚だった。

※後見についてググったらこんな説明がありました。


そして観客の位置からの視点は、僕は経験していないけれど、最上さんの言葉によると、いつものスローの稽古に比べて、飲む前と、飲んだ後の変化が大きくて驚いたと言っておられた。皆が皆そうだったので、おもしろいと思われたそう。

そして、僕がお茶碗から手を離す時のことを印象的だったと言っていただいたのだけれど、やはりあの時に僕が内側で感じていたことが、外からも何かが起こっているらしく見えたということなのだと思われる。

ひとつひとつがとても印象深いスローの稽古であったと、今朝になって振り返りながら思った。

あの時起こったことを、今こうしてひとりで回想することも、とても大事な稽古なのかも知れないと思うのだけれど、ふと、昔読んだWEバトラーの魔術修行」という本の中で紹介されていた瞑想法のことを思い出した。

寝る前に、その日あったことを遡りながら、朝目覚めるところまで思い出していくという瞑想の方法で、昔、いっとき続けてやっていたことがあった。

こうして稽古の中で起こったことを再体験しながらなぞることは、まさにその瞑想法でやってることと同じように何か大事なものを育てていることなのかも知れないと思った。

これはとても忍耐のいることなのだけれど、これができるようになることで開く回路というようなものがあるのかも知れないと思ったのと同時に、昔から、夢を書き留める癖がずっと続いているということも、関係あるのかも知れないと思ったのだった。

夢を思い出しながら辿ることと、その日一日あったことを思い出しながら辿ることは、たしかに似ていて、それは持続の中に入ってくための、準備作業でもあるのかも知れないと思ったりもする。

そのような訓練をしている人はたしかにあまりいないと思うので、こうして無意識のうちに自分が辿ってきた道筋というものは、原初舞踏の中でようやく意味を見出し始めているということなのかも知れないと思うと、背筋がゾクッとした。

というわけで、すでに次の稽古が楽しみなのだけれど、昨日の稽古に関しても掘り出せる宝物がまだまだあるので、ちゃんと反芻して、身につけていきたいと思うのでありました。

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