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心配から始めるのはやめた方がいい

今朝はこのnote記事が目に飛び込んできた。


何にしても、心配から始めることはやめた方がいいってことだ。特に自分が安心を得るために外に(他者に)働きかけるのはやめた方が良い。

家庭の話でも、政治がらみの話でも、社会の様々な問題についても、どれも同じことなんだと思う。

心配が先に立っている時には焦って動いたりせず、おでこに手を当てて深呼吸して、しばらく空を見つめてみたり、寝っ転がって重力を感じてみたりした方が良いだろう。

ついついいろんな情報に反応してしまうけれど、そんな時にも、まずは内在を意識して、そこから何かが湧き上がってくるのを待つ方が良いということだと思う。

自分がなぜここにいるのか、自分は何者なのか、そこがはっきりしたら、心配はなくなり、プロセスに対する信頼が生まれるだろう。そしておそらく最も適切なことができる。そのほとんどは何もしないということになるだろうし、何かするとしても自分の喜びのためにやることになるだろう。

以下、坂爪さんのnoteの内容をコピペしとく

不登校支援をされている方が、不登校のこどもを「学校に来れなくなっちゃったこども」と表現した。その言葉が強く印象に残った。その言葉を聞き続けたこどもたちは、自分はダメな人間、自分はできない人間、自分は可哀想な人間なんだと思うのではないだろうか。事実、不登校支援をされている方は、こどもたちのことが心配だと言った。誤解を恐れずに言うと、心配は最悪のエネルギーだと思う。心配だから何かをやる、こどもたちのために何かをやる、よかれと思って何かをやるのは、よかれと思っている分だけ、根深い、タチが悪い問題だと思う。

ものすごい嫌な言い方になるが、貧困ビジネスという言葉が脳裏をよぎった。こどもたちを、自分の生きがいに使っているように感じた。こどもと関わりたいと思う気持ちはわかる。こどもと一緒に遊びたい、こどもと一緒に楽しみたいと思う気持ちならわかる。だが、なぜ、関わりたいが「助けたい」になるのかがわからなかった。誰かを救いたいと思う気持ちは危険だ。正義感は、押し付けた瞬間、暴力になる。自分がしたかったこと、自分がして欲しかったことを、必ずしも相手が求めているとは限らない。多くの場合、それはおせっかいになる。余計なお世話になる。問題は、こどもの側にあるのではない。自立ができていない大人の側にある。

大人は、情を愛と勘違いする。心配を愛と勘違いする。だが、情や心配は愛についたゴミだ。愛は信頼。心配は愛を奪う。心配をするのは、相手のためではない。ただ、自分が安心をしたいだけだ。ただ、自分が「自分は誰かの力になれている」と思いたいだけだ。こどもは、親を安心させるために生まれた訳ではない。だが、こどもは親が好きだから、親を安心させようとする。結果、自分自身からズレて、生命感を失い、鬱病になる。親が自立しないと、こどもも自立できない。親が幸せになると、こどもも幸せになる。介入するのは愛ではない。愛は介入をしない。介入するのはエゴであり、支配だ。

極論、こどものことはほっとけばいい。他人のことはほっとけばいい。助けてくれと言われた時だけ何かをやればいい。そうじゃなければ、自分も相手も自立をしない。相手のためとか言いながら、うまく行かない時に「相手のせい」にするようになる。自立とは、誰かのせいにしないこと。困った時、甘えられる相手を探すのではなく、素直に助けて欲しいと言えること。行きたいなら行けばいい。行きたくなければ行かなければいい。最悪死ぬだけ。やりたいならやればいい。やりたくなければやらなければいい。愛は淡白。嫌なことをして生きるよりも、好きなことをして死ぬ方がいい。自由に生きても案外死なない。自由を奪われた方が死ぬ。自分が自分を大丈夫だと思えていないから、大人はこどもに「大丈夫じゃない」と言い続ける。

かつて、私は母に「お前はみんなから愛されている間は生きて、誰からも愛されなくなったら死ぬんだね」と言われたことがある。この言葉を聞いた時「さすが、俺の母だな」と思った。母は、死ぬことさえ含めて、私を自由にした。この言葉に母の愛を感じた。逆説的だが「俺は死なない」と思った。なぜならば、私は愛されているからだ。私は許されているからだ。情は支配。愛は解放。母は、信頼で私を解放した。この突き放し方はよかった。母の子に生まれてよかったと思った。私たちの家族は、こどもの誕生日にも、母の日にも、父の日にも、何もしない。情はない。恩はない。絆はない。信頼がある。冷淡に見える裏側に、強い信頼がある。

https://note.com/keigosakatsume/n/n8d82397f5d88

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