心配は最悪のエネルギー。
不登校支援をされている方が、不登校のこどもを「学校に来れなくなっちゃったこども」と表現した。その言葉が強く印象に残った。その言葉を聞き続けたこどもたちは、自分はダメな人間、自分はできない人間、自分は可哀想な人間なんだと思うのではないだろうか。事実、不登校支援をされている方は、こどもたちのことが心配だと言った。誤解を恐れずに言うと、心配は最悪のエネルギーだと思う。心配だから何かをやる、こどもたちのために何かをやる、よかれと思って何かをやるのは、よかれと思っている分だけ、根深い、タチが悪い問題だと思う。
ものすごい嫌な言い方になるが、貧困ビジネスという言葉が脳裏をよぎった。こどもたちを、自分の生きがいに使っているように感じた。こどもと関わりたいと思う気持ちはわかる。こどもと一緒に遊びたい、こどもと一緒に楽しみたいと思う気持ちならわかる。だが、なぜ、関わりたいが「助けたい」になるのかがわからなかった。誰かを救いたいと思う気持ちは危険だ。正義感は、押し付けた瞬間、暴力になる。自分がしたかったこと、自分がして欲しかったことを、必ずしも相手が求めているとは限らない。多くの場合、それはおせっかいになる。余計なお世話になる。問題は、こどもの側にあるのではない。自立ができていない大人の側にある。
大人は、情を愛と勘違いする。心配を愛と勘違いする。だが、情や心配は愛についたゴミだ。愛は信頼。心配は愛を奪う。心配をするのは、相手のためではない。ただ、自分が安心をしたいだけだ。ただ、自分が「自分は誰かの力になれている」と思いたいだけだ。こどもは、親を安心させるために生まれた訳ではない。だが、こどもは親が好きだから、親を安心させようとする。結果、自分自身からズレて、生命感を失い、鬱病になる。親が自立しないと、こどもも自立できない。親が幸せになると、こどもも幸せになる。介入するのは愛ではない。愛は介入をしない。介入するのはエゴであり、支配だ。
極論、こどものことはほっとけばいい。他人のことはほっとけばいい。助けてくれと言われた時だけ何かをやればいい。そうじゃなければ、自分も相手も自立をしない。相手のためとか言いながら、うまく行かない時に「相手のせい」にするようになる。自立とは、誰かのせいにしないこと。困った時、甘えられる相手を探すのではなく、素直に助けて欲しいと言えること。行きたいなら行けばいい。行きたくなければ行かなければいい。最悪死ぬだけ。やりたいならやればいい。やりたくなければやらなければいい。愛は淡白。嫌なことをして生きるよりも、好きなことをして死ぬ方がいい。自由に生きても案外死なない。自由を奪われた方が死ぬ。自分が自分を大丈夫だと思えていないから、大人はこどもに「大丈夫じゃない」と言い続ける。
かつて、私は母に「お前はみんなから愛されている間は生きて、誰からも愛されなくなったら死ぬんだね」と言われたことがある。この言葉を聞いた時「さすが、俺の母だな」と思った。母は、死ぬことさえ含めて、私を自由にした。この言葉に母の愛を感じた。逆説的だが「俺は死なない」と思った。なぜならば、私は愛されているからだ。私は許されているからだ。情は支配。愛は解放。母は、信頼で私を解放した。この突き放し方はよかった。母の子に生まれてよかったと思った。私たちの家族は、こどもの誕生日にも、母の日にも、父の日にも、何もしない。情はない。恩はない。絆はない。信頼がある。冷淡に見える裏側に、強い信頼がある。
バッチ来い人類!うおおおおお〜!