お辞儀
昨日の原初舞踏の稽古で最も印象に残ったのは、「お辞儀」でした。
扇を使ったスローの稽古の中でのことでしたが、彼岸を想定し、丁寧なお辞儀の後、本当に空間が変わりました。お辞儀前に見えていた世界とお辞儀の後に見えた世界はまるで違うものでした。
今振り返って反芻してみると、ある意味、お辞儀をしたことで彼岸を立ち上げたのは自分自身の身体の持つ力だったのかもしれません。
彼岸というのは、いつでもそこにあり、自分がそれを開くかどうか、それを選ぶかどうかということだけなのかもしれません。「お辞儀」という所作が、空間を開く鍵となったような気がします。
その後、扇を手に取り、開き、「あなた」を迎え入れ、ひとつになりました。文字に書くとシンプルですが、この間、ある種のエクスタシーに包まれ、とてつもないことを体験しているということを感じていました。
そして、扇の要が「あなた」の側に向くように倒します。扇から手を離してしまえば、自分のターンは終わりです。そう思うと、なかなか扇を倒せませんでした。
やり残したことはなかったか、本当にこれで終えてもよかったのか、何度も逡巡しながら、気の遠くなるような時間の経過ののち、扇が倒れる音が空間に響き渡りました。
その「音」は決定的な終わりであり、成就であり、希望でもあるのだと思います。この扇の要を「あなた」に託したわけですから。。。
あとはよろしくお願いしますと、再びお辞儀をした時に、これで良かったのだと思えて、少し目頭が熱くなりました。
これはもしかしたら交替化の儀式なのかもしれません。天津神と国津神の間で行われる交替化という宇宙的なイベントを儀礼的に模したものがこの扇を使った稽古なのではないかとさえ思ってしまいました。まあ、妄想といえば妄想なんですけどね。
ちなみに、僕自身、個人的に扇との付き合いはとても長いのです。バリの踊りの中で初めて扇を手にするようになってから、一時期はどこにでも扇を持ち歩き、毎日布団の中にまで持ち込み、握りしめながら眠っていたほどでした。
様々な扇の使い方を自分なりにも考えてきましたが、ここにきて、この原初舞踏の稽古場での扇を使った稽古の中で、また新たな世界が開かれて、本当に驚いています。
扇は呪具であるということは重々知っていたつもりでしたが、本当の意味での扇の使い方を今あらためて学ばせてもらっているのだと思っています。
本当に濃い充実した時間を過ごしました。最初のオーム斉唱でも、いつも以上にはっきりとした倍音の響きを聞きましたし、東京巡礼での景色さえも見えたような気がします。
僕は来週の東京巡礼自体には参加できませんが、この日の稽古を通して、そこに並べたような気がして、とてもうれしかったです。
この写真は最上さんのエックスより