夜中に上がってきたFacebookの友達の投稿を読んで、まさにこれだと思いました。あまりにピッタリすぎて震えるくらいです。
僕は、ここで片岡ゆかりさんが書かれていることを、踊りを通して見ています。「踊る双者」というのは、今回新年会で僕がやった踊りのテーマでもありました。
舞踏の領域に入っていき、「わたし」を宣言し、その人がじゅうぶん成熟していたならば、たしかに「あなた」が現れるということが起こるのだと思います。
その鳥肌が立つような瞬間に、立ち現れてきた彼岸と向き合い、そこで「わたし」を生き切り、花となれたならば「わたし」は「あなたのあなた」となりうる境地に達するのでしょう。
そう言う意味では、春井星乃さんがイデアサイコロジーで言われている、人格を形成することの大事さと言うのは、間違いないことだと思います。「わたし」が確立していない段階では「あなたのあなた」はじゅうぶんとは言えないと思います。
そのための試金石的装置として舞台があるとも言えるでしょう。踊るということは、単独者として能動者としてヌースとなることです。そしてそれを目撃する観客も装置の一部です。それらがすべて完璧にそろったとき、舞台の上に花が咲くのだと思います。
もし失敗したら、また準備して再チャレンジすればいいのでしょう。そのプロセス自体が、必要なことを教えてくれるでしょうから。そしてやがて、ある時、扉が開く時は来るように思います。そしてそれこそが、岩戸開きの本当の意味なのではないかとも思うのです。
自らの意思で扉に手をかけ、開こうと能動したものが踏み出す大地。それが原初舞踏の最上和子さんが言われるところの「足元から始まる神話」の第一歩となっていくのでしょう。全てがシンクロしてつながっていると感じます。
まじ、何か、始まってしまったと言うような感覚があり、ぶるぶる震えています。(笑)
以下、Facebook見れない人のために、片岡ゆかりさんの投稿のテキストをコピペしておきます。