Facebookで、このような過去の投稿を見ました。(一番下にコピペしたものをおいておきます。)
超大雑把に言うと、狂気とは、本来はブレイクスルーするべきものだというようなことを、オショーが語っているというもの。
ある意味、狂気とはゲシュタルトの崩壊であるとしたら、その方向に人間の進化があると言えるだろうね。
ただ、その先に新しいゲシュタルトを見出せていないと、危険もあることは確かで、望むべきは、スムーズなゲシュタルトの移行であり、そのために何ができるかということを考えるのが必要な姿勢だと思う。
結果がどうなるかはわからないけど、やってみるしかないというスタンスは少々乱暴にも感じるけれど、たしかに、30〜40年前くらいには、まだそういう時代だったかも知れないなと思う。
僕的には昔経験したダイナミック瞑想であるとか、ダンスセラピー的なものはとてもよかったんだけれど、たぶん合う人、合わない人というのはあって、人によっては逆にしんどい経験になった人もいるんじゃないかなとも思う。
そう言えば、ヌーソロジーでも、ψ11後半に現れるのはスキゾフレニアであり、それがψ13=ψ*1の彼岸への橋渡しの位置にあるとしていたけれど、今はその意味がとてもよくわかる。やはりそこは避けては通れないボトルネック的な道筋なんだと思う。
いずれにしても、二重に重なっている空間を、スムーズに見分けられないとしたら、そこを通りぬけるプロセスは困難なものとなるわけで、それは蛹(さなぎ)から羽化しようとする蝶々が、途中で引っかかって、にっちもさっちも動けなくなっている状態に似ている。
そのプロセスをどうすれば滞りなく通り抜けられるか、そのサポートをするのが、本来の精神医療の役割であるはずだけど、もちろん医療は「木を見て、森を見ず」という姿勢のものなので、余計なことしかできないということになるだろう。
そういう意味では、空間構造から解き明かし、人間型ゲシュタルトから、新たな変換人型ゲシュタルトへの転換を提示している、ヌーソロジーの出現は、まさに来るべきものが来たということなんだと思う。
みなが安全に彼岸に渡れるようにするために、道筋をつけようとしているのがヌーソロジーの役割と言えるだろうか。そう考えると、これもまた菩薩行と言ってもいいだろうね。ほんと頭が下がる。
また、原初舞踏のアプローチも大枠では同じ方向を向いているなと、僕的には思うんだよね。
人それぞれに、その人なりの道はあるんだと思うんだけど、向いてる方向が同じ人やモノは、感覚的にわかるものだなと思うし、また逆に、向いてる方向が違うというものもわかっちゃうよね。
以下、上のFacebook記事のコピペ