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誰かのためとか言い始めたら1アウト

今日は坂爪圭吾さんのnoteを読んで思ったことを書いておこうと思う。これ↓


「誰かのためとか言い始めたら1アウト。こんなに頑張っているのにとか思ったら2アウト。やりたいからやっていますと言えなくなったら3アウト。チェンジ。生き方を変える合図だ。」

この書き出しを読みながら、昔田んぼを手伝いに来てくれた人とした話を思い出した。

僕「子供たちのために、子供たちの未来のために、というような言い方がものすごく嫌い。やるなら自分がやりたいからやるというのでないと嘘だと思う。」

それを聞いた人はかなりの間、きょとんとしていたような気がする。上手く伝わらなかったかもしれないなと思いながら、それは自分の中でもまだじゅうぶん咀嚼できていなかったからなのかもしれないと今になって思う。

最初、僕が自然農を始めたのはたしかに「やりたいから」だったのだけれど、「無理してでもやらねば」と思うようになったのは、世界の有り様を見て、どこか世界を救いたいからというような"よこしま"さがあったのかもしれない。

たしかに「人のために」と始めたことは、簡単に「人のせいで」に置き換わる。それはきっと一種の依存の現れということなんだろう。だから「誰かのため」と言い出すのは、その時点でワンストライクとなるのだろう。

僕はそのことをうっすらと理解していながら、実のところ自分自身がそこにハマっていたということもあったのだろうと思う。

たしかに、「こんなに頑張っているのに」と思うようになっていったところもあったし、「やりたいからやっている」と言いながら、始めてしまったことだから他に道はないとも思っていた。おそらくすでにその辺りでスリーアウトチェンジだったのだろう。

天の采配とでも言わんばかりに、そのタイミングで来たのが、引っ越しの宣告だったわけだ。その時点ではまだ稲作を続けることも模索していたし、可能性もないわけではなかったけれど、これまたちょうどそのタイミングで原初舞踏に出会い、その稽古に参加して体験したことが衝撃的だったので、ちゃんと我がやりたいことをやるということから今に至る選択をしたということになる。

そのような経緯があったので、誰かが「人のために」というようなことを話しているのを聞くとき、僕の中の何かが反応するようなところがある。

誤解なきように書き添えておくけれど、人のために何かをすることがすべて悪いわけではない。しかし人のために何かするなら、その人からの依頼と許可、何かをすることに対する承認を得てからすることが必須だと思う。

そうでなければその行為は余計なお世話となり、無意識のうちのエネルギー支配となってしまうかもしれないからだ。「人のために」する行為は往々にして人を支配し、その人の権威、機会、可能性を奪う危険性もあるということを知っていないといけないと思う。

そこから派生して少し話は変わるのだけれど、またこれはあくまでも今現在の僕の中にあるこだわりみたいなものだけれど、踊りは人のために踊るのではなく、神のために踊るものでもないと思っている。

そういう意味で、「奉納舞」という行為があまり好きではない。散々バリの踊りで奉納の舞をしてきた自分を棚に上げて言うのは変かもしれないけれど、踊りは自分のために踊るものだと思う。

自分のための踊りを、人が見たり、神が見たりしてそこになんらかの響きの共振が起こることはあるかもしれないけれど、初めから人に見せ、神に見せるために踊るという建て付けには違和感がある。それだとやはり承認欲求を満たし権威を得るための行為のように思えてしまう。

ここまで書いてきて思ったのだけれど、もしかしたら独自性と共に能動性があるかどうかということが鍵なのかもしれない。踊りは本来内部から能動的に発するものであり、湧き上がってくるものであり、それは「見られる」「認められる」ということとは向き付けが完全に反転しているのだ。

その衝動のように湧き上がる独自の踊りに身を任せ、結実させ、しかしその上でちゃんと還ってくるということが必要になる。おそらくこの還ってくるプロセスにおいては「見られる」の空間も意識しないといけないのだろう。

まず第一義は内発であり能動の「往」。そして第二義としての「還」。そうして「往還」することで踊りは完成する。そのためには場がいるということ。それゆえに舞台があり、踊りを見る人や神がいるというのが、儀礼として何かを成就するための舞台装置ということだろう。

そう考えると、けっして奉納舞という形を嫌がる必要もないような気がしてきた。ポイントはあくまでも踊り手の姿勢であり思想なのだから。独自性と能動性こそが踊ることの意味と言えるのかもしれない。

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