2018年2月25日。 忘れもしない。 私は、当時付き合っていたオランダ人の彼女にフラれた。 そして今ドイツにいる。 意味が分からないと思われる方もいるだろうが、私も正直意味がわからない。 なんで私は今ドイツにいるのだろうか。 私とオランダ人の元カノは、とあるインターネットの言語交換サイトで知り合った。当時、英語を独学で勉強していた私は、ある日オランダ人の女の子からメッセージをもらった。一緒に英語を勉強しようと。 普段なら、ネイティブ以外相手にしないのだが、この
圧倒的に書くことが足りていない。 とりあえず何かを書く練習から始めなければ。 先日先生から修論の時より接続詞の使い方が下手になっていると指摘があった。 言われてみれば修論を書き終えてからの数ヶ月、文章を書くことすらほとんどなかった。 これはまずいと思った。 noteで雑文を書くことがはたして効果あるのかと言われると、まだやってないのでよくわからないが、やらないよりは多分マシだろうと思う。 話変わって、実は今年度学内で博士課程在籍者が学部生に向けて行う1回きりの講座
朝起きて、窓を開けるともう西陽が。 大体13時くらいに起きるから窓から差し込む光が少し暗い。 そこからご飯を食べて研究道具一式を持って大学に行く。 机に座り本を開き気になったところにマーカーを引き、パソコンにまとめて考えを書いていく。 大体2時間でエネルギーが切れるからここでコーヒーを求めに大学を出てカフェに向かう。 元々私はコーヒーを飲むと吐くくらいカフェインに弱かったのだけど、大学院での修行により耐えれるようになった。 カフェで作業を再開するも、あまり頭が回ら
6月の学会発表がなかなかにストレスを与えてくる。私は耐えれるのか。先生からドイツに行けと言われた。行った方がいいのかもしれない。
祖父からついにあんた誰ねと言われてしまった。祖父は私が誰か覚えていなかった。私は祖父の死が怖いのではなく、祖父が死に近づくにつれて私を忘れることが怖いのかもしれない。
暗い話です。 久しぶりに祖父に会いに大阪に来た。 一昨年の12月に会って以来だから1年ちょっとぶりかしら。 その時はまだ祖父は祖母が亡くなってからずっと1人でアパートに暮らしていた。 今は施設に入り介護してもらいながら生活している。 私は久しぶりの再会に胸を踊らせ会いに行った。 祖父はいつも優しい顔をしていた。 戦争で小学校にもほとんど通えず、苦労して仕事に就き家族を養ったそんな祖父だ。 昔から会うたびに勉強は大事だぞと言い聞かされた。 私が大学に入り大学院
校舎の影 芝生の上 吸い込まれる空… この支配からの卒業… と尾崎豊が歌ったとか歌ってないとか。 私にとってこの大学の校舎は見るだけで吐き気を催すくらいすごくトラウマになっている。 この2年間正直あまり記憶がない。本当にあっという間だった。 大学院に入ったと思ったらもう修了してしまった。 入って1年目は学会発表でもがき苦しみ、2年目は査読論文と修士論文に苦しめられた。 もがき苦しんだ記憶しか残ってないような気がする。 とりあえず2年間が終わった。 そして始まる
先日人生2回目の学会発表があった。 分野横断型の学会だったのでさまざまな意見がもらえ非常に充実した学会だったと思う。 質問をしにこられた方の多くから今後もこの研究を続けてほしいと言われた。 私もそうしたい。 ということで、先日無事博士課程入学試験に合格し4月より博士課程に進むことが決まった。 これからも研究ができるのだ。 とても嬉しい。 今後どうなるか全く見当がつかないが、とりあえずは自分のテーマにどんどん厚みを増すようにやっていくしかないだろう。 これから先
実は2ヶ月ほど前にマッチングアプリをやっていた。 そこで知り合った人と先月2回ほど会ってなかなかいい感じになった。と思っていた。 しかし、ここ最近はなかなか連絡も取れず私は一体どうしたらいいのとなっている。 恋愛について、人間はおそらく長い間ずっと考えてきたのだと思うが、このよく分からない現象を私が上手いこと扱える気もやはりしない。 連絡が来たかなと思い有頂天になっていると、またしばらく連絡が途絶え心がマリアナ海溝へと沈んでいく。 マリアナ海溝に沈んだ先に待っている
今日でnoteを書き始めてから4年が経ったらしい。 記憶が正しければ、初めてのnoteは留学中カールスルーエに陸上の大会を見に行った時、色々とストレスで大変だったためホテルで思いつくことを書き連ねたのが最初だったと思う。 それがこの記事。 そうこれが私の一番最初の記事だった。 今読んでもなかなか面白いと思ってしまう。 ここに出てくる元カノさんとは今でもたまに連絡をとっている。 仕事も順調に進み、なかなか満足した生活を送っていると言われた。 私の研究も応援してくれ
博士課程入院試験の願書提出開始1日前。 書類を書き終わり提出書類の最終チェックを行なった。 上から順番に志願票、副票、志望動機書、学部の成績証明書及び大学院の成績証明書、修了見込み証明書とチェックしていった。 ん?学部の成績証明書? この時私の体にこれまでに感じたことのない電撃のような何かが流れ、一気に目の前が暗くなった。 そう。私はすっかりこの学部の時の成績証明書とやらを見落としていた。 やばい。 提出開始は明日だ。締切も来週の水曜だ。 間に合わない。 と
ついに終わった。 長い長いと思っていた2年間があっという間に終わった。 どのくらいあっという間かというと、アンハサウェイがプラダを着た悪魔でプラダを着こなせるようになるまでくらい、あっという間だった。 修論発表会では色々と鋭い質問や厳しい意見もいただいた。 これは今後の研究に大いに役に立つと思っている。 さて今後をどうするかが問題だ。 この大学でそのまま博士を続けるのか、それとも別に行くのか。 この大学の博士の出願は来週からだ。 あと1週間悩みに悩もうと思う。
私はセンター試験を受けなかった。 当時の私は通信制高校に通っていた。 月に数回課題を出しに行く以外はほとんど家にいて寝ていた。 釣りに行く時とロードバイクに乗る時以外は本当にずっと寝ていた。 センター試験はとりあえず受けてみようと思って申し込みはしていた。 前日までは受ける気満々だった。 勉強は全くと言っていいほどしてなかったけど、いい点を取れる自信があった。 でも当日になるととても行きたくなくなった。 ちょうど父が釣りに行かないかと誘ってきたので一緒に行くこ
修論を提出した。 しかも提出開始初日の朝イチで出した。 とても嬉しかった。 ただそれと同時にとてつもなく大きな不安に襲われた。 論文に間違いがあるかといった心配から、今後の将来のことまで、色んな不安が頭の中をわちゃわちゃと動き回った。 そんなこんなでこの3連休はほとんど寝ていた。 そういえば今日先生から、提出が早すぎて戸惑ってしまったと言われた。 怒られるのかと思ったが、どうやら先生が院生だった時代は、修論は提出ギリギリまで粘るものだということで早めに出すと怒ら
早いもので2023年もあと数日で終わるらしい。 今年は去年と比べて常に何かに追われる日々を過ごしていた。 1月は年明け早々コロナにかかり中間発表も倒れかけながら行った。 2月からは学会で発表した原稿の論文化に勤しんだ。これが5月末提出だったため、学振の提出とも被ってしまった。そのせいでほぼ同時進行でやる羽目になってしまった。 マルチタスクが壊滅的にできない私は毎日倒れかけていた。 両方なんとか提出し終えた時、「倒れてどっちも出せんやろうなと思ってた」と言われたくらい
不合格という文字を見てもなんとも思わない。 今回もまた不合格だった。 大事なのはどのように不合格であったかである。 合格最低点が60点だったが、54.29点であった。あと6点欲しかった。 あと6点さえあれば私は独検1級1次試験突破者として名を馳せることができたのに。 あと60円あればからあげクンを買えたのにと悔しんだ高校1年の春。 あと6万円あれば今すぐにでもドイツに行けるのにと涙を飲んだ去年の夏。 あぁ。なぜ私にとってこうも6という数字がのしかかってくるのか。