偏見・先入観なしに考えることはできるだろうか?

まずはそれぞれの言葉を整理する。

偏見とは、偏ったものの見方や考え方、客観的な根拠なしに抱く非好意的な判断である。

偏っているとは、対象や判断基準の数や種類が、不均等であったり恣意的に選ばれていたりするような状態である。つまり、偏った見方とは、多面的に見ることができる対象や出来事を、一面的にしか見ていないのに、それを全てであるかのようにとらえている状態である。

客観的なものとは、データや事実のように誰にとっても同じであり、個人の感情や判断が入り込まないものである。

好意的は、相手の立場を尊重しその人の益になるように考えるさまであるので、非好意的はその逆である。

先入観とは、最初に得た情報によって作り上げられる、自由な思考を妨げる固定的な観念である。

作り上げられるとは、元々の思考材料に何らかの変化が生じることである。思考材料が正しくても、変化の過程で間違ったことが入り込むと、間違った観念になってしまう。

固定的とは、同じ内容であり続けるさまである。逆に内容を疑ったり最新の情報を調べたりして、内容が変わり得るような行動をする場合、先入観にとらわれていないと言えるだろう。

観念とは、人が物事に対して抱く、主観的な考えのことである。客観的なものを基に形成されることもあるが、その場合でも主観的な判断や感情、イメージなどが加わっている。単に客観的なものは観念とは言わない。

考えるとは、知識や経験などに基づいて、あれこれと頭を働かせることである。知識や経験は前提にあたり、あれこれと頭を働かせることが推論にあたる。考えることと思考は同じ意味として扱う。

頭を働かせるとは、脳の中で記号や論理、言葉を組み合わせて思案することである。このときの思考材料として、知識や経験が使われる。何も使わずに頭を働かせることはできない。

できるとは、実現や達成が可能であることである。あり得ないことはできない。

次に、前提を確認する。考える主体は人間のみ、つまり人間かつ考えることができる存在に限定する。時は現代、場所は現実の地球上に限定する。

この問いにYESと言える条件は、偏見がなく、先入観もなく、考えたことになり、できると言えることである。主体が人間なので、1人でもできる人が存在するならば、できない人がいたとしてもYESと言える。また、ある思考で偏見・先入観がなければよいので、その人の他の思考に偏見・先入観が含まれていても、YESと言える。

逆にNOであれば、人間の全ての思考において、偏見もしくは先入観が含まれることを示すか、考えたことにならないことを示すか、人間に不可能なことを示せばいい。

この問いについて、多くの人は「できない」「NO」が答えだと思ったのではないだろうか?たしかに、入ってくる情報が正しいかはわからないし、何を知るかをコントロールすることもできない。また、自分の思考のクセに気づくことは難しいし、気づいたとしても別の思考のクセに変わっただけという可能性もある。

しかし、確実に正しい情報というのはあるのではないか?また、クセが入り込まず、誰でも同じプロセスを辿るような正しい思考の仕方はあるのではないか?

思考には前提推論が必要である。つまり、何らかの根拠となるもの複数と、それらを組み合わせる過程が必要である。前提と推論両方で偏見・先入観が入り込まないものがあるかを確認する。

前提は、何らかの事実や真理であれば、偏見・先入観は入り込まないだろう。それは例えば、科学的に観測されたもの、統計的なデータ、数学の公式などである。

これらは多面的に見ることができないので、多面的に見ることができるのに一面的にしか見ていないということはあり得ず、偏りは生じない。客観的なものであり、好意/非好意という感情も入り込まず、判断でもない。よって、偏見には当てはまらない。

また、そのまま前提として採用するから作り上げられてはおらず、主観が入っていないから観念ではない。よって、先入観にも当てはまらない。

したがって、偏見・先入観なしの前提は存在する。

推論は、論理に則って機械的に導いていけば、偏見・先入観は入り込まないだろう。例えば、計算や三段論法などである。

これらは必要な情報や過程が決まっているため、何かが偏ることはない。1+1=2を考えるときに、1と+と=と2の定義が必要であり、逆に他のものを持ち込むのは間違いである。客観的なものであり、好意/非好意のような感情が含まれることもない。よって、偏見は入り込まない。

また、論理はどのようなものであるか決まっていて変わらないため、個人によって作り上げられることはない。作り上げられるものがないので、それが固定化されることもない。客観的な操作のみであるので、主観的でもない。よって、先入観も入り込まない。

したがって、偏見・先入観のない推論も存在する。

このように、何らかの事実や真理を前提として、論理的に推論をすれば、偏見・先入観は入り込まないと言える。これで、偏見がなく、先入観もなく、考えたことになるような例を見つけることができた。

そして、上記のような思考を人間ができるのかを考えなければならない。しかし、これは多くの人がしたことがあったり、普段からしていたりするのではないだろうか?

身近な例であれば、小学生の頃に割り算の筆算をしたことや、ビラ配りをしたときの方がしなかったときより売上が上がったというデータから、売上を上げるためにはビラ配りは有効であると推論することなどが挙げられる。

私もそのような経験があるし、読者の方も似たような経験があると思う。ここで、そもそもできないと経験があるはずがないので、経験があるということはできたということである。そして、このような思考は過去にはできて今はできないようなものではなく、反復や再現が可能である。仮に思考能力の低下などで同じ人が反復や再現ができなくても、誰か1人ができればYESと言えるので問題ない。

このように、YESと言える条件を全て満たしたので、偏見・先入観なしに考えることはできると言える。

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