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私にとっての母



私の母はすでに亡くなっている。
私は今28歳。私の人生の半分は、母がいない生活だった。

母は統合失調症だった。
私が小学3年生の頃から、幻聴が聞こえたり、様子がおかしかった。

母は私たち家族と一緒に過ごすどころか、食べ物もまともに食べていなかった。

車に乗るなり、誰かが見てる。隠れて!と言い出すこともあった。

学校から帰ってくると、台所から包丁が消えていたこともあった。

家族全員で母の機嫌を伺う生活だった。


私は子供のころ、いつも下を向いて歩いていた記憶しかない。


そこから母が統合失調症と診断されるまでに2年はかかった。

最終的には母が父の車に火をつけようとして、近所の方が通報したことがきっかけで、母は警察に連れて行かれ、その後病院で診察を受けたらしい。


それがきっかけで私の両親は離婚した。

母が出て行ったこの家はこんなにも静かだったんだと、その時初めて知った。


私は母が統合失調症であったという事実を20歳になるまで知らなかった。

母が事件を起こした当時、小学5年だった私に理解できなかったため、
20歳まで知ることがなかったのだろう。



私は子供の頃の記憶があまりない。

おそらく、無意識のうちに蓋をしている。


私が通った母校を見ると、当時歌った今月の歌、楽しかった記憶が蘇ってくる。

けれど同時に、母に殴られた瞬間、母が父に物を投げつける瞬間、姉を蹴る瞬間、
そう言ったものも残っている。

あの時、私には何かできることがあったのではないかと、今でも時々考えてしまう。


私が最後に母に会ったのは、母が看護師さんと2人で荷物を取りに来た時だ。
私と姉は夏休みの登校日をサボって、なんとか会えるようにしたのだ。

それが私にとっては母と会う最後の日となってしまった。

統合失調症という病気を何も理解できなかった私は、その後母が怖くて会えなかった。

一度だけ、母と電話で○○駅で会おうかという話をしていたのに、
話している途中で怖くなった私は「行けない」と言ってしまった。


私が中学2年の時、母が危篤だという知らせを家で受けた時、
父の迎えを待っていた私にできたことは、

当時持っていた電子ピアノを弾くことだけだった。

泣きながら下手くそなピアノを弾いた。


その時の私の感情を表現できる唯一の手段だった。


その後、葬式で浮腫んだ母の顔を見て泣いた覚えはない。
誰かに「泣かないんだね、強いんだね。」と言われた記憶しかない。



この文章の目的は、私自身の人生の振り返りと整理だ。

自分に起こったことに意味づけをしたい、
愛されたかったという自分の感情に居場所を与えるための文章であり、
私自身のこれからの人生への願いでもある。

母にもらったものはたくさんある。

きっと母がいなければ今、私は英語が話せない。
一番初めに英語を教えてくれたのは母だからだ。

そして色んな習い事をさせてもらった。
ピアノもその一つだ。

私は今も母が好きなのか、嫌いなのかわからない。
そしてこれからも、わからないままなのかもしれない。

それでも私はこれからも、母に自分の音が届くだろうかと願いながら、
きっとピアノを弾くのだろう。


愛されたかった。生きていて欲しかった。

亡くなる前に一度だけ会いたかった。


その気持ちを抱えて生きていくことが、
私が今もピアノを弾いている理由なのかもしれない。

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