見出し画像

Swinging Chandelier : 8-カナリア


本作『Swinging Chandelier』は暁夜花さま作『戯れシリーズ』における登場人物がクロスオーバーします。また、こちらで公開された作品は全て、事前に暁夜花さまの目を通してあることをお伝えいたします。


Swinging Chandelier: 8-カナリア

 二度目の打ち合わせはわたしと大貫の二人で、場所は向こうの会社の、オフィスから直接入れる少人数向けの会議室だった。壁と入り口のドアには半透明の硝子が多く使われ、開放感と防犯どちらにも有用なデザインになっていた。書類を机に揃えながら、この部屋いいですねと大貫に伝える。
「やっぱりわかるものでしょうか」
「どういう意味ですか?」
「オフィスを改装する時にこの部屋のデザイン案を出したの、御子柴です。少人数用の部屋が完全な閉鎖空間になるのは良くない、と」
 うっすらとでも外から内側の動きが窺えること。年齢や職位や性別、そこから派生しやすいハラスメントの可能性を、この小さな会議室は避けている。すごいな御子柴さん。
「仕事上、年齢や性別関係なく人に接することを考えればすごく良いアイディアだと思います。御子柴さんにそうお伝えください、大貫さん」
 わたしの笑顔に大貫も、仕事人としての素直な笑顔を返した。
 本当なら今日は御子柴さんも同席するはずだったが、体調を崩してしまったらしくて会えなかった。元々今回は服のデザインに関する話は出ない予定だったので仕事自体に支障はなかったが、御子柴さんの顔を見られないのは残念だった。
 大貫とは、進捗の確認や残りの予算、納期と販売予定数の調整をした。順調に進んでいく仕事。向かい合って話すわたしたちは言葉も表情もすっかり大人で、けれどなにか、むず痒いようなタイミングがやってきては少し笑い出したいような気持ちになる。

 帰り際に手洗いを借りて戻る途中ひそひそと、聞こえる。隠す気で喋るには迂闊な音量だけど。
「誰、あれ」
「なんか取引先の人?」
「雰囲気がさー、背の低いミコシーって感じ?劣化版?」
「思ったそれ。ウケる」
「うちより全然小さい会社の人らしいけど、仕事できますみたいな顔してて。なんか勘違いしてそう」
「大貫課長もやたらかしこまってて。なんだろねー」
「そういえばその案件、ミコシー絡みらしいよ」
「またかよ。さっさと本社帰れって感じ」
「ミコシーって仕事はデキるくせにすぐ具合悪くなるじゃん、ヒロインだよねー」
「大貫課長ってミコシーには優しいもんね」
「ないわー」
 三人、かな。せっかく可愛い声なんだからもっと素敵な言葉をさえずっていればいいのに。それよりもミコシーって御子柴さんの渾名あだなだろうか。
 トイレのすぐ近くに給湯室。まあ古風というか、大きなビルだし仕方がないのだろうけれど。死角があるとどうしてもそこに吹き溜まりができる。
 大貫の左の腋窩えきか、毛の生えていない窪みのところに小さいホクロがあるよ。ってあの子たちに教えてやろうか。なんてことが頭をよぎり、くだらないからやめなさいよと何故かさゆりさんの声が頭の中で聞こえた。自分の会社ではこんな流言聞かないけれど、もしかしたらさゆりさんがわたしのことをずっと守ってくれていたのかもしれないな。入社当時からわたしは生意気だったはずだし。
 それにしても。カーペット敷きの廊下なんだから近づいてくる靴音が聞こえづらいことくらい考えておいた方がいい。人の出入りが多い会社だ、どこに耳があるかわかったものではないのに。
 さてそれにしても、大貫はそんなに、わたしの前でかしこまっていたのだろうか。普段の仕事を知らないから計りようもないのだけれど。そんなことを考えて。そうして律儀に出口まで送る大貫とエレベーターで二人きりになったら、つい吹き出してしまった。
「ど、うかしましたか」
「だってもう。学食でゲーム機片手にカレー食べながら『古龍の部位破壊できねえ』とかやってたのに今じゃ『大貫さん』に『上條さん』なんだもん。おかしくって」
「まあ、そうですけど」
 大貫の目元は真面目なままだったが、口元の線は眠い時に書き取ったノートのようになっていた。
 エントランスを抜けて、喫煙所を囲うような躑躅つつじの植え込みや、ベンチに溜まる午後の淡い日差し、そういうものを目にすればまた少し、ゆるむ。
「わたしもさー。自分の年収よりデカい金が動く仕事の打ち合わせなんかしちゃたりして本当、大人って不思議」
「一応言っておきますがおれの年収よりもデカいですからね。大人って言っても毎日必死ですよ」
 苦笑いに吐き出される煙。そういえば大貫も昔から、わたしと同じマルボロの十二ミリだったな。
「でももう、大貫は課長さんだもんね。えらいよ」
「先輩だって今の案件に限らずいろいろやってきて頼りになると、先日一緒だった御前みさきさゆりさんも言ってたじゃないですか」
 実力はあるんだしもう少し欲を出してもいいんじゃない?と、たまにさゆりさんに言われる。けれど職場を管理していくことよりも現場に近い仕事に熱中している方が、わたしには楽だった。「変わる」とか「進む」とか、そういうものに対するよくわからない感覚。それを前にするとわたしは。
「さゆりさんはまあ、何だかんだ甘いからね。大したことないよ、わたしは」
 何かを誤魔化したいような気持ちが、ここにある。
 大貫は、ほんの少しだけ遠い目をした。大人になったくせに、あの春の雪に身につけていたチャコールグレーを思い出させるような、目。
「そんな風に笑うところ、昔から変わらないんですね、先輩は」
「そう?」
 わたしは睫毛を伏せてマルボロの重い煙を、曇るように吐き出す。空と同じだ。雨も降らないけど晴れてもいない、乾いた秋。
「だけど大人になっても、先輩はきれいなままです」
 真面目な顔のまま笑って、大貫はそう言った。わたしが一瞬でも目を伏せれば、この男はそれを見逃してはくれない。昔からだ。それは大貫が持つ良いものであり、けれど同時に。
「そういうことは御子柴さんに言いなさいよあんた」
 灰皿に煙草を押し付けながらわたしはまた少し誤魔化すように笑って、それでも大貫には効果覿面こうかてきめんなようで、鼻から口から煙を吐き出して咳き込んだ。
「み、こしっゲホッ、なんで知ってるんですか?」
 大貫のこういうところは、本当に昔から変わらない。
「まあなんとなく、雰囲気?付き合ってないわけじゃないんでしょ?」
 ユキさんの店に偶然居合わせたこと、御子柴さんは大貫に伝えたのだろうか。それはわからないが。
「え、や。まあ、付き合ってます、ね。ハイ」
 観念する大貫の、隠せない、誤魔化せないところ。それらは大貫が「いい奴」たる所以で同時に、つけ込まれやすい部分だったりもする。
「御子柴さんさ、大貫のこと、すごくまっすぐ見てるよ」
「先輩に言われると、たしかにそう、ですね、あいつは」
「なんか似たようなこと、御子柴さんも言ってたな」
「え、」
 あの時の「先輩」は御子柴さんから見た大貫のことだったけれども。
「まあいいや。劣化版ミコシーは今日は帰るとするよ」
 大貫の表情が少し硬くなる。
「それどこで……、あー。あいつらか。すみません、社外の方に迷惑かけるようなこと」
「いや、わたしはあんまり。ただ規模の大きい会社は大変なんだろうなって。御子柴さんも本社の人だから、色々あるんでしょ?」
「そうですね」
 少し硬いまま、それでも真っ直ぐな目。大切なものがある顔。御子柴さんと同じ色だ。
 良かった。大貫は見つめるべきものを、ちゃんと探し当てたんだ。
「じゃあ頑張れよ、大貫課長」
 ほんの少し茶化すように声を出したら、大貫は照れ臭そうにしながらまた少しゆるむ。長い腕を上げて大きな手を振って、わたしたちは街路樹のところで別れた。

 帰り道。家とは逆方向の電車に乗った。青い円柱のあるナイトクラブ。仕事用の服のままだったけれど荷物と上着をクロークに預け、止まり木でほとんど一気にハートランドを飲んでから、今度は少しゆっくりジンリッキーを咽喉のどへ流す。
 色々な囀りが、まだ頭に残っている。
「背の低いミコシーって感じ?劣化版?」
「真黎さんはわたしと違って大人なんだもん」
「そんなふうに笑うところ、昔から変わらないんですね、先輩は」
 どんなだよ、と思いながら、三杯目はジンライムに変える。絞り入れる時にライムの皮に触れた指から、独特の青みと苦味のある芳香がしている。
 そんなふう、がどんなものなのか。わたしの方で覚えがないわけではなかった。大貫もわたしも大人になったくせに結局昔を忘れていなくて、いやそれは当たり前かもしれないけれど。
「あーあ」
 ぼやきながらジンライムを飲み干して、咽喉と胃が瞬間的に熱くなる。煙草に火をつけて酔いの中に少し冷たい覚醒を作ってやりながら、フロアを眺める。飲んでいる間にだいぶ人が入ってきたようだ。
 電子音にスラヴ民謡のアレンジや民族楽器の音を乗せて、高く唸る歌い手とテンポの速いベース。夏至の太陽がほとんど沈まない国の音楽ユニット。その一番好きな曲が来たのでわたしはフロアに降りて、前後も左右も馬鹿みたいに頭を振った。ピアスのチェーンが揺れて飾りが頬にぶつかり、タイトに作ってあるブラウスの腕がきしんだ。
 谷間に響く羊飼いのような歌声、電子音、突き抜けるギターと刻むベース。スラヴの言葉はわからない。キリル文字も読めない。けれど歌詞の意味は知っていた。
「永らくの冬の、歌わずに居た娘たち、待ちわびた春の歌を歌おう」
 ブラックライトの海をいくつも貫くスポットライト、でたらめに泳ぐように、溺れるように。曲が激しくなったらモッシュのようになって、そこらの人と肩や腰がぶつかる。ウルフボブの髪をぐしゃぐしゃにしながら頭を振り続けて五センチのヒールを踏み鳴らしながら、音が弾けてベースが一番うるさくなる箇所で、スクエアトゥの中の靴擦れが破けた。
 待ちわびる季節、あったかな。春とか夏とか、開いていくのは苦しくなるから、涼しいとか寒いとか、そういうままがいい。
 止まり木に戻ってジンライムをお代わりしたら、左耳のラージホールに蛍光ピンクのプラグをつけた男が近寄って来た。
「子猫が暴れてるみたいで可愛い」
 男はショットグラスでテキーラを飲んだ。
「あんたの耳もブラックライトに光ってて可愛いわ」
 ぐしゃぐしゃのわたしの髪に男が触れる。
「どっか、別のとこ行かない?」
「できれば終電で帰りたいんだけど、」
 髪に触れる手を、わたしは撫でる。暖かい手だった。
 人工大理石でできた洗面台の上。浅く腰掛けた素肌にそれはぴたりと冷たい。二人で収まって鍵をかければ、もう他にスペースのない個室トイレ。側面の姿見に、脚を抱えられながら腕で躯を支えるわたしが横向きに映っている。反対側の壁には次のパーティーのゲストDJとかインディーズバンドのライヴのお知らせとかがたくさん貼ってある。けれどトイレ全体が薬物中毒者ジャンキーの注射防止用のために青暗い照明の水底に沈んでいるから、目に映るものはみんなぼやけている。その男の肩も、顔も、ぼやけて、でも蛍光ピンクのプラグはまだ光っている。
 ストレートのテキーラを二ショット飲んだ直後でよく勃つなこの男。ぼんやりとわたしは、酔いが深くなるのを感じる。さっき散々頭を振った上にこんな不安定な体勢で腰を振られて、きっと後で頭が痛くなるに決まってる。
 ノックの音がして、対面にあったノブが男の躯越しにガチャガチャと震える。他に個室はあるが、一杯なのだろうか。届く位置だったので、曲がった脚を伸ばしざまに一発、ドアに向けて思い切り蹴り込んだ。蝶番ごと大袈裟に音が鳴って、ヒールからジンジンと、破れた靴擦れに痛みが響く。
「おっかねえ子だなあ」
 男は随分面白がる。
 無理のある体勢のせいか膣の中でゴムがよれて、かすかな痛みがある。その痛みは、脳内に引っかかっているぐるぐるしたものを手繰り寄せる。
「だけど先輩は大人になっても、きれいなままです」
 どこがだよ。というかあいつの言うきれいってなんだったっけな。すごく真面目にゆっくり発音するから、かえってわからないんだよ。
 ぐるぐるしたものごと、個室の水底にぼやけたまま、フロアの音が遠く耳に届く。
 この曲も知ってる。
「井戸の底の人魚たち、わたしを置いて森へ、森へ。導かれるのは小さな窓辺、小鳥が飛んで種を蒔く。わたしを悼む人魚たち、わたしを置いてどうか、森へ、森へ、朝陽が差すから。小鳥が歌う……」
 男が呻きながらわたしの頭を抱え込む。わたしはもうほとんど洗面台に仰向けるように背中を反らして、爪先が天井の方を向いていた。
 沈みきれない。
「歌ってたね。最後の方ずっと」
 止まり木まで戻って、奢ってもらったマルガリータを飲んでいたら男は笑いながらそう言った。
「そ?」
「小鳥みたいな、ちっちゃな声だったけどね」
「人魚じゃないの?」
「なんだそりゃ。おかしな子だな」
 ああわたしもだいぶ酔ってるな。
「なんにしても、綺麗だったよ。すごく」
 男はまたわたしの髪をぐしゃりと撫でてから、フロアの海に消えた。
 その綺麗なら、知ってる。わたしが知りたいのは多分、別の意味の方だった。
 マルガリータの最後の一口を干して、わたしは煙草に火をつけた。井戸の深海を彷徨って、小鳥の歌う窓辺がぼんやりとまだ、まぶたに残っている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?