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悲劇と寿司ペロ

どーもお元気ですか、アネサキは絶賛二日酔い中です。何度も同じ過ちを繰り返してしまう自分の愚かさを呪います。
財布は無くすし、終電は逃すし、悲劇的な1日。
さて、今日はそんな悲劇について、、

アリストテレスの【悲劇論】によると、悲劇とは、観る人々に「哀れみ」や「恐怖」を駆り立てるものらしいです。さらに、悲劇としてやってはいけないことが3つあるそうです。


(1)立派な人が不幸になる
 このようなプロットは、人情に反し、哀れみや恐怖よりも、怒りや忌々しさを与えてしまうのです。

(2)極悪人が不幸になる
 多くの人々は悪人に感情移入することができず、このような筋書きに恐怖を覚えません。恐怖とは「自分にも波及するのではないか」という不安から来るものなのです。

(3)極悪人が幸福になる
 このようなプロットも、人情に反するものであり、人々に忌々しさを与えてしまうようです。

正しい悲劇とは「邪悪さ」による不幸への転落ではなく、「大いなる無知」による不幸の物語であると語っています。



ところで、現代の社会問題とも言われるネット炎上、特定、人生の破滅、、
OMMCネキや寿司ペロ高校生は、「邪悪さ」というよりもむしろ「大いなる無知」によって不幸になってしまったように思えます。

しかし、この物語に対する哀れみや恐怖を覚える人々は少なく、殆どの人々は怒りや忌々しさを覚えています。
アリストテレスの分類によると、炎上してしまった彼らは極悪人なのでしょうか?


ネットとは一面的な人間性しか見ることは出来ません。本来彼らは普通の高校生のはずで、友人を助けたり、親の手伝いをしたりする良い子かもしれない。

でも、我々が見えるのは「やらかした出来事」の最中の彼らだけ。

悪行を行っている真っ最中の彼らを見て、極悪人の人間性であると判断されるのだから、ネット炎上は必然的に怒りを生んでしまうのです。
映画「JOKER」はジョーカーへの同情を誘った名作でしたが、彼が人を撃ち殺すシーンだけを見たら誰も彼に同情しないでしょう。

ネット炎上は悲劇になり得ない。
しかし、現代人は一面性の奥にある物語を考える余裕を持ったほうがいいかもですね。

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