ケアする、される間に潜む狂気


冷たい雨が降る中、人間の条件 第四回本公演『桜の森の満開の下』を観てきた。
3月も下旬というのに、寒い日が続き、桜は全く咲いていない。静まり返った住宅街の真ん中にある「劇場バビロンの流れのほとりにて」に足を踏み入れた。

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桜の花びらが舞う様子は劇場を出た後もチラついた。暗い夜道で、ふと思ったのは心の中に処理されることなく溜まっていた体験が作品を通して激しく散らばり、宙を舞った様な感覚だった。視覚的に捉えられることはないそれらの体験は過日の出来事が、分解されることなく心の奥底につもり、静かに沈んでいたのかもしれない。池の底に堆積した落ち葉のように。

森の中を縦横無尽に走る山賊、わがままを言い、要求はそこを尽きることのない女。この2人の様子を客席から眺めていると、2人が交わすセリフはとても少ない。それ以上に、おんぶをする、抱き抱える、切った首を与える、髪をとく、食事を食べさせる、排泄を手伝う、支えて歩かせる、という動作で2人が関わる機会が圧倒的に多い。

ケアをすることは、文字で書くととても少なく、言葉にするとそこには「する行為」しか残らない。ケアを実際にしてみると、息が上がり、手間がかかる。抱きかかえる、そのまま歩く、走る、降ろす、寝かせる、要望を聞く、それに対応する。これらは連続して途切れることがない。愛する、その人を助ける、喜ばせる、その人の役に立ちたいという感情だけでは成り立たなくなる。そうして別な感情がケアという行為を通して芽生えてくる。劇中では何度も人を抱き上げ、おんぶする、格闘するシーンが出てくる。この時に役者は息が上がり、顔をこわばらせ、肉体的な負荷に役者の内側から漏れ出てくる感情が感じられた。

一方で、ケアをされる人は、なにひとつとして要求を止めることはできない。生まれたての赤子、呼吸器をつけた子ども、自力で首を支えられない人、全て人の手を借りなければ生きていけない。この状況にある中で、生命を維持するためにケアは連続し、手を抜けない。この「のっぴきならない状態」、前にも後ろにも下がれない、逃れられない状態は、何も身体的なケアばかりではない。満たされない欲求、埋まらない空虚感に応えることもまた同様の状況になる。舞台の四隅から上がり、あの限られた空間の中で繰り広げられる動きは言葉以上に、逃れたくても逃れられないケアする、される関係性を表している様だった。


「する」、「される」というパワーバランスは、「される」側を弱い立場に写すが、人のケアを受けないと成り立たない底のない欲求、省けないケアを日々円環的に続く状況はある意味、人を1人倒せるエネルギーともなる。その圧倒的なエネルギーを前に倒れないよう足をしっかりと開き、踏ん張りながら、ときに自分の欲求と折り合いをつける。

その狭間で葛藤する様子、気が狂い、暴力的な行為へと発展する様が全て、作品の中では表現されていた。愛する、愛される、ケアをする、ケアをされる、そのシステムはシンプルでありながら、実際の営みでは奪われる体力、消耗する何か、虚しさ、言い尽くせない苦悩を巻き込んでいく。そこから逃れられない中、苦悩は膨らみシステムは破綻してカオスが引き起こされる。

山賊に夫を殺された女の喪失は山の中でどんなに山賊が尽くしても慰められず、埋まらない要求として膨れ上がる。満たされないことへの不満、虚しさと併せて見捨てられることへの恐怖は複数の場面で散見された。桜への美しくもあり怖いと思う感情、満開の桜の下で狂うことは、ケアの中でたびたび起こるままならない感情から逃れたい、逃れられない、その瀬戸際の平安であり、女を殺した、終結したところで外された梯子のようでもあった。

明日が千秋楽です。
目が離せない、びっくりしてなにも考えられない、その後眠れなくなるくらい頭がクラクラする作品です。
ぜひ、見に行って欲しい。



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