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小さい私が聞いている『目に見えるせかい以外はどうなってますか』

小さい頃の私がせかいに抱いた2つの疑問
ひとつ目はこちら

もうひとつの疑問
せかいのうち
目に見えない部分は
いったいどうなっているのだろう
ということ

私の視界から外れてしまった
せかいはいったい誰が見ているのだろう

大人になってみれば
せかいは私の視線の範囲を遥か
超えて常に動いている
むしろ、せかいの中では
私という存在への認知の方が
極めて小さい

そう、小さい私のせかいは
一人称の私の視線のなかが
すべてだった

だから、絵本や物語と同じ構造で
せかいは出来ていると思っていたから
本を開くように、私の視界に入れば
せかいは色をつけて動き出すと
思っていた

大人になって思い出すと
なんとまあ自己中心な考えだと
恥ずかしくなるが
もうひとつの疑問と同じように
真剣に考え続けた

◇◇

小さい私が考えた仮説は
1. 絵本と同じように見えないところは
 せかいは止まっている
2. 自分が見ているせかいが動いているように
 誰かが見ているとせかいは動くから
 いくつかのせかいがパズルのように
 合わさってつながっている
3. 自分自身も絵本のなかのひとりで
 誰かに読まれているだけ
4.  超自然的な何かが見ているから
 おっきいせかいは動いている

もちろん振り返ると
こういうことを考えて
いたのではないか
という後からの解釈だけれど

2番目は、『存在することは知覚することである』というバークリーに近い考えであるから
なんだか哲学的な仮説をたてたものだと
我ながら驚く

ひとつめの疑問と同じく
小さい私は誰にも聞くことが出来ない

どうやって説明したら良いか
ことばにすることが出来なかった

好奇心というよりも
疑問が多く
何を見ても不思議で仕方なかった

あまり疑問を持たずに
生活しているみんなが不思議
だったし

『なんで』と聞いても
あまり答えを持っていない
親のことも不思議だと思っていた
(大人は何でも知っているはずだと
その頃は思っていた)

◇◇

こんな風に
実に面倒くさい
小さい私だけれど

見学に連れて行かれた幼稚園で
たべっ子どうぶつを
貰ったことに味をしめて
幼稚園がどんなものか知らないのに
疑問を抱かずに『いくー』と
即答する
というきちんと子どもらしい
一面があったと言い訳をしておく
(その日のこともきちんと覚えている)



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