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相続しようとしたら知らないままでは終わらなかった話⑦

相続に関する手続きを進める一方で、50年近く借りていた実家の片付けもした。最初に契約を解除する日を決めた。とにかくこの頃は「やらなければ終わらない」と淡々と進めていて、我ながらうまくいっていると思っていた。

まずネットで不用品回収業者を探し、大型家具の処分の見積もりに来てもらう。金髪のお兄さんの底抜けに明るい感じがよくて即決し、作業の日は4人ほどであっという間に運び出してくれた。

大きな家具が片付いたら部屋が空いたので、持ち帰りエリアと処分エリアを決めた。残った物を片っ端から分別してそれぞれのエリアに置く。処分エリアの物できるだけは分解して、出来ない物は粗大ゴミ回収に申し込む。ゴミ置き場はいつでも出せるのがありがたい。何度も部屋とごみ置き場を往復した。

家の中からは文房具、タオル、それと大小様々な大きさのジップ付き袋が一生かかっても使いきれない量が出てきた。なぜこの3つなのかは謎だが、迷わず持ち帰りエリアに置く。他にも食器や小物などまだ使えそうな物はあったが、すでに物であふれている自宅のどこにしまうか考えるのも嫌になり、持ち帰るのは消耗品だけと決めた。

作業はラジオをかけながら全て一人でやった。家族に手伝ってもらってもよかったが、なんとなく一人で片付けたかったのだ。おかげで週末は何度か通うはめになったが、気持ちの整理をつけるに必要な時間なのだと思いながら片付けた。

作業しながらどうしても見つけたいものがあった。それは両親の再婚と父には子供がいた痕跡。絶対どこかにあるはずだ。しかし隅から隅まで探してもどうしても見つからなかった。父の若い頃の物は高校の同窓会名簿と叔母からの手紙一通だけ。あっけないほど何も残っていなかった。

そして最後の最後に私の中でぷっつりと糸が切れた。
最初は戸棚を搬出する時に私の写真のアルバムがないな、と気づいた。いつもあった棚には雑誌が入っていた。押入れかな?天袋かな?片付けが進んでも出てこない。部屋が空っぽになってもアルバムどころか家族の写真は一枚もなかった。
おこがましいが私はそこそこかわいい赤ちゃんだった。幼い頃の写真は実家に置きっぱなしで、お正月などに皆が集まった時に引っ張り出して見るのが好きだった。アルバムは家族の歴史であり、両親の愛情の証、だと思っていた。
それをまさか父が相談もなくきれいさっぱり処分するとは思いもしなかった。この3年ほどはコロナで実家に寄っても日帰りになり、ゆっくりアルバムなど見る時間もなかった。きっとその間に捨てたに違いない。

父にとって家庭や私はどんな存在だったのだろう。
小さい頃、母に叱られている私を最後にいつも助けてくれた。運動会の時はどこからかビデオを借りてきて最前列で身を乗り出して撮影していた。就職が決まった時は誰よりも喜んでくれた。病気をしてから弱々しい声で何度も電話をしてきた。

そんな姿は私の中から泡のように消えた。
そして死んだ父に聞きたいことは山ほどあったのに、何もかもどうでもよくなった。

探していた物は何も見つからず、最後に掃除をして、鍵を返して、部屋を見上げた。

こんなとこ二度と来るか。


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