安全に狂う
ジャンボりミッキ、コングロマリット、ネバダネバギバ、サイコロコンパス、長旅ご苦労。
遠くに見えていた大変そうなものが、近づくと全然そんなことなかった、という、やっぱりね、という日だった。近づいてみれば大体のことが大変ではない。
頭を刈り上げたい。頭って髪のことですけど、坊主。坊主は勇気が出なくとも、とても短く、したい、気持ち。やってみたことがないからどうなるのかわからない。
予想するに、まず頭が軽くなって、周りの人が最初は驚くけれど最初だけで、徐々に髪が伸びていく途中が変な感じになって、そして3ヶ月もすれば元通りになるのだと思う。
私の話を聞いて、直感で絵を描いてくれる人から連絡があって「整いました」ときた。私の母親が古事記にも出てくる有名な神様を祀る神社の離島出身なのを確かめたのちの「整いました」だったので、あの島からそんなに私のイメージが引っ張られるものなのかと。その人がそう思ったのなら、そうなのだろう。中学生以来お墓参りにも行けてない。久々に船に乗って訪れてみようかしら。
雨に濡れるし、汗だくになるし、内からも外からもびそびそ。仕事終わりであれば濡れるのは大歓迎。気持ち良い。顎をしたたる汗。汗が滝のように止まらないときは、元気!開放的!という感じがする。
7月になった。夏だ。朝起きたら気温が27度だ。扇風機を体にあてっぱなしで寝て腹が冷えた。
羽毛布団をしまいたいけれど、雨で干す間がない。何もかも湿気ている。風呂場のドアのベニア板が湿気で膨張して、枠に引っかかって、裂けて、反り返っている。ドアが閉めにくい、鍵がかけにくい。力ずく生活。
「安全に狂う方法」という本が良かったので、付箋を貼ったところからいくつか引用する。2週目を読んでいる。
最もよくあり、逃れにくいアディクションが、「思考」であると思う。
考えにハマってしまうこと。これは形を持たず、なおかつ自分自身とほぼ同義に見えてしまうため、自分でも逃れるすべを見つけられない。どこへ行っても自分から逃れるすべはないのである。
いや、正確には自分自身ではない。「自分に関する自分の考え」である。「自分にまつわる物語」である。しかし、物語をこそ人は捨てられないのだ。それは自分が生きてきた意味そのものに思える。捨てるも地獄だし、捨てないも地獄なのだ。
43p
アディクションとは「強度のとらわれ」である。あることについて考えることが1日の大半を占めてしまい、必要なことまでを圧迫する。しかもその状態から、努力で離れることができない。
お酒を飲む、ギャンブルをする・・・アディクションとしてどういう行動をするかは、問題の本質ではない。行動として何をしなくても、そのことをずっと考えているだけで日常生活は圧迫されるのであり、問題の本質はそこである。「とらわれ」である。
45p
死ぬのにも勇気とエネルギーがいると知った。自分に直接手を下さないで死にたいというとき、わたしなら自分で自分を病気にするだろうと思った。人はそういうことができる。説明のつかない難病になって、何年か、何十年かかけて死んでいく。
78p
自力でコントロールできなかったのがアディクションだ。そこから出ようと決めたとき、自力ではすでに効かなくてこうなったのだから、諦めなければならない。自分は無力である。自分に対して、問題に対して、無力である。そう認める。
208p
言葉で読み解いてしまうなら簡単に聞こえることを、わたしたちはたくさんの象徴を使い、縛り、解き、結び、切るなどして解放していった。相談したわけではなく、その場でしたことだ。意味は後からくる。意味が来る前に、解放は体が感じている。
中略
人は容易に意味に殺されうる。「言葉が自分」だと思ってしまうことはよく起きるし、インターネット空間ではテキストやコンテンツに実存が追いつめられることが、日常茶飯事以上に起きている。
人間は、もっといろんなところを開いて交信できる。空気中で交換される微弱な電気信号、空気中を伸びる見えない触手のようなもので触れにいき、また触れられる。電磁情報、匂いの分子、皮膚、温度、空気の濃度密度、筋反射、弛緩、重力、反力・・・言葉を持たないときそういうもので交流していたにちがいないこと、今では忘れてしまった言語を、人がふたたび持つことはできる。
230-231p
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