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チャイムの聞こえる部屋から(いもうと)

こんにちは。いもうとです。
またしてもご無沙汰をしてしまいました。

近況をご報告しますと、引越しをしました。市内ですけれど。
荷解きをしながら、気づいてしまいました。うち、本が多い。
ひと部屋の壁3方向が本棚で(窓の下半分は隠れました)、居間にも長身の夫と同じ背丈の本棚をひとつ新調して置きました。流石に余裕があるだろうと思っていたのに、それらはあっさりと、実にぴったりと埋まりました。
驚きです。どこから増えてきたんでしょう。フシギだなあ。これじゃもう増やせないのかなあ、と言いながら、夜中に猛烈に読みたくなって手塚治虫『火の鳥』文庫版全巻セットで買いました。ぎゅうぎゅう(押し込む音)。

新居は小学校の近くです。ときどきチャイムの音が聞こえます。
平日は毎日決まった時間に流れているのでしょうが、こちらが掃除機をかけていたりテレビがついていたりして、耳に届くのはごく稀です。
そういう、そこに確かにあるけれど、こちらの事情でいっぱいになっていて、気づかない見えない聞こえないもの——ふりをしているものを含め——は、たくさんあるのだろうと思います。

その、あねの同僚の先生。「現場は辞めてもらいたいと思っている」「使い物にならない」。うわあ、と思いました。そんなことを、面と向かって言うんだ、と。それはあなたの意見かもしれないけれど、「現場は」と主語を大きくしちゃうの?とも。真面目な先生なのでしょう、一生懸命職務に当たられているのでしょう。生徒達のこともきっと考えていらっしゃる。正義の主張、というあねの言葉は正しく、また危険な脆さでもあると思います。「正義」を振りかざすとき、人は無自覚に残酷になりうると思うからです。

書店を退職して8年になりますが、休職に入る前には消えてしまった有給が復活する制度があり、その何十日かと、休職期間もめいっぱい療養に使うつもりでいました。が、引き続き休職する旨を職場に伝えた際、上司から返ってきたのは言葉は「根くらべだと思ってますんで」でした。
「辞めてくれ」とは言えないから、こちらが「辞めます」と言い出すのを待っている、ということかと思いました。
そりゃあ、そうでしょう、人件費は重いものです。しかも働いていないのに固定給です。戻る気がないならとっとと辞めちまえ給料泥棒と思われていて当然だわ、と思いました。いくらかの休職期間を残して、退職しました。

いや、とある日思いました。
あの「根くらべ」は、「休職期間いっぱいまで支えるよ、でも駄目だったらまた考えよう」という意味だったのかもしれなかった。その真意を確かめもせず、ぐるぐると悪い方向へ思い詰めてしまった私には、あのときまだ余裕がありませんでした。

私の感情、私の気持ち、私の価値観、私の思考回路、私の感受性。

「私」は時折、私の邪魔をします。
素直に受け止めるだけでいいものを曲解したり、否定したり、誤解したり、反発したり攻撃したり、勝手に傷ついたり。目と耳を塞ぎ、言わなくていいことまで叫んでしまう、「私」は難儀な生き物です。
けれど、離れることも捨て去ることもできない。私が立ち、考え、感じ、ものを書き、涙し、生きているのは「私」あってこそ。

目を、耳を、塞いではいないか。感じる心を、凍らせてはいないか。それは、ここで言うべきことなのか。誰かの声や思いに、気づかぬふりをしていないだろうか。見ないふりをしていないだろうか。自分の「正義」を振りかざすとき、その旗の支柱で誰かを薙ぎ払ってはいないか。ひとりよがりに、なっていないだろうか?

私の目から見る、私の考える世界はほんの一部で、全てではないのだということを教えてくれるのはいつも他者——それは身近な人であり、本であり、歴史であり、思想であり、私の外にある全て——であり、知らぬところで影響を与えたり与えられたりしている。そういう関係をなんて言うんだと思う?と夫に聞いてみたところ、少し考えた後に「社会的距離」と答えました。
ソーシャルディスタンス!(ちがう)

キンコンカンコン、キンコンカンコン。
チャイムの聞こえる部屋で、本や新聞を読んだり、テレビを見たりしながら、最近の私はそんなことを考えています。


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