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人はみな馴れぬ齢を生きている(いもうと)

あねへ


毎日暑いね。甥は2学期が始まりましたか?
今年、いや去年から、札幌は暑さのレベルが上がったように思います。ここに住んでもう10年以上になるけれど、住み始めた当初は、夏なんて窓さえ開けていれば何とかなったのです。扇風機すら滅多に使わなかった。
ところが去年は8月の頭に連日の真夏日。33度とか34度とか、見慣れない数字が天気予報の画面に踊りました。マラソンやるの?無理じゃない??今年は9月になっても30度超え。この暑さの中で子どもたちは勉強しているのか。先生たちは教壇に立っているのか。信じられない。全国の教室にエアコンをつけてあげてくれ。
来年までにエアコンのある部屋に引っ越したい。

ケストナーの前書きを読むべく久しぶりに『飛ぶ教室』を開きましたが、そうだったこれクリスマスの話なんだった。全然気分が出ないわい。これは冬に読む本だったな、と閉じました。
本には読むのによい季節と時間帯がある……私の中で。夏に、冬に、朝に、夜に読むべき、と本を分けがちです。同時進行で読んだりしてる。本の中と季節が一致すると臨場感があっていいし、ミステリは夜たっぷり時間をとってから読みたいし、食エッセイを夜に開いてはとても危険(しかし危険を犯したい)。出先で開くのは、エッセイ集が好きです。


大人は子どものころのことをどうして忘れてしまうんだろう、という話。
子どもは気楽でいいよなァなんて言ってしまう人は、本当に心から気楽で幸せで愛された日々を送ってきたのかというと、まあ中にはいるかもしれないけれど、大体の人はきっとそうじゃない。
本当に、言葉を発したその瞬間は忘れてしまっているのかもしれない。しんどさの不等号の向きはいつも現在に向けられている。大人>子供って。でもそれぞれに、そのときに、誰のものでもない自分自身の問題があって、その辛さは誰とも比べようがないことを忘れてしまっている。
あるいは過去の年齢は乗り越えられたハードルだと思うのかもしれない。大変だったけど、何とかやりきった。今思えばそんなに高いハードルじゃなかったのかもしれない、と。これから先の何が起こるかわからない大人の年齢に比べたら、全然大したことないんだよと。いや、子どもはこれから、その何が起こるかわからない、まだ経験のない年齢を生きるのだけど。


人はみな馴れぬ齢を生きているユリカモメ飛ぶまるき曇天(永田紅)


これは、永田紅(永田和宏、河野裕子の娘)が学生のときに詠んだ歌。確か永田和宏のエッセイを読んでいたときに引用されたのだけど、どの本だったか。ものすごく、ものすごく、響いたので、手帳に書きつけた。
20代、大人と呼ばれる年齢にはなったけれど、まったくそれっぽくないな、とずっと思っていた。あの頃ずいぶん立派な大人に見えた年齢に自分もなってはみたけれど、全然、全く、しっかりしていないし、できないこともわからないこともたくさんあるものだな!って。30代になってもちっとも馴れない。相変わらず生きるのに右往左往して、自信は容易く揺らいで心はちっとも安定しないし、思い描いた大人像とはまったく違う。今でも初めてのことがあればものすごく戸惑う。いつの間にかこんなに年をとったのかと思う人もいれば、私のように年齢だけ重ねても成熟しきらないと嘆く人もいるだろう。孔子も「四十にして惑わず」と、迷っていたからそう書いたのだというし。
子どもも大人も、みな馴れぬ齢の今日を生きている。明日は晴れるのか雨が降るのかわからないこの曇天を。

心の声が漏れがちなRくんも、「高校生なんだから」「○歳になったんだから」といつの間にか今まで許されたことが許されなくなったりしたかしら。お腹の中ではいくら毒づいたっていいじゃんと思うけど、漏れるのは困るよねー。Rくん自身が困るねー。
しかしその毒を自分の中に留めておくのも大人のやるべきことなので(できない年齢だけの大人もいるけどね!)、かわいいR、がんばろう。「私のかわいいR」という愛情のかけられ方を、私は体験したことがあるだろうか。振り返ればあれも愛情だったと思えるけど、わかりやすい、真っ直ぐな「かわいい」や「愛してる」を……いやきっとたくさんもらったことがあるんだろう。私が覚えていないだけで。

どうして大人になると、子どもの頃のことを忘れてしまうんだろう?
そういうことを、時々取り出して抱きしめてみたいのに。


追伸。
珍プレー好プレーは夫が好きなんだよ。それで一緒に見てる。殊に懐かしのプレーが好きで。
ちなみに夫が大好きなのは「コンタクトレンズを落としてしまい、試合を止めて懸命に探す達川」「間違いなく当たってないのに当たったとデッドボールを主張する達川」です。

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