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人は痛みを分かられたい生き物だ(あね)

いもうとへ

こんにちは。大雪の中での引越しお疲れ様。ぎゅうぎゅうな本たち、さぞかし引っ越し屋さん泣かせだったでしょうね。

ところで、あなたにいただいたお手紙に、すぐに返事をしたくなりました。まさに昨日夫と話していたことを、あなたの手紙の中に見たからです。

私たちの交わす話もそうであるように、人はこの世にただ起こった「現象」について、自分の解釈をするでしょう?それがあなたの言う、


素直に受け止めるだけでいいものを曲解したり、否定したり、誤解したり、反発したり攻撃したり、勝手に傷ついたり。目と耳を塞ぎ、言わなくていいことまで叫んでしまう、

ということでもあると思います。その自分の解釈のレンズというのは、「私はその事実、現象に対して何もできない」という無力感からきているのだそうです。(ある方のお話より、私が学んだこと)そしてその解釈によって生み出されるストーリーの中で、自分は犠牲者となり、加害者とする相手に向かって己の正義を作り上げて戦いに行ったり、あるいはそこから逃避したりする。その、無力感のレンズの根底には何があるかといえば、「痛み」なんだよね。人間は、「自分の痛みを分かられたい」生き物なのですって。それは、人は皆、(皆、よ!)必ずなにか痛みを抱えているから。(それはものすごく過去のことだったりする)

ところで、その痛みが何かに触発された時に、人は何かしらの反応を起こすのだけれど、その思考、行動はパターンになっているのだって。こんなこと言ったら、あの人はこうなるだろうみたいなこと、あるよね?

私があなたに話したことも、まさにこれにあてはまる。私の根っこにある痛みは「嫌われたくない。認めてほしい。愛されたい。注目してほしい。」のようなものだと思う。だから、否定されるということにものすごく怖れを感じてきたように思います。その度に、自己嫌悪に陥って、相手に許しを請おうとする。これが私のパターンでした。

彼の国のリーダーは、痛みをわかってほしくて、戦いに行くパターンなんだろうな。でも痛みはわかってもらえないから、悲しみや寂しさがさらに増していく。1人くらい、「あなたはこんな痛みを抱えているのよね?」と共感してあげられたら、この残酷な出来事は起こらなかったかもしれない…残酷な正義をふりかざすことにはならなかったかもしれないと、思います。

さて、冒頭の、夫と話したことの具体的な内容について。長男の野球スクールの、6年生のRくんが、昨日最後の練習だったそう。私も知っているのだけれど、彼は野球は上手いのにちょっとチャラっとしていて、練習中もそんな態度が見てとれる子。気に入らない年下の子の胸ぐらをつかんだこともあった。その子が最後にみんなの前で「僕は中学校になったら野球やらないんで。バスケやるんで。」と言ったそう。それについて夫は「やっぱりあいつはチャラ男だ。」とイライラしながら話したの。

私がその時言ったのは、
「チャラっとした彼が、チャラっと練習をして、野球はもうやらないと最後に言い放ったのが腹が立つ、っていうのはあなたの解釈だよね。その根底に、あなたのどんな痛みがあるんだろうね。」ということ。夫はうーんと考えて、「自分も中学に上がる時、仲間がやめていって悲しかった。本当はみんなで野球をやりたかった。野球をチャラチャラやっているとコーチに叱られたし、自分も一生懸命にやっていると気持ちがよかった、それでうまくなれた。」という事実に気がついたようでした。その痛み装置が発動し、そして彼に対して自分は何をすることもできないという無力感が、その解釈を生み出したのだよね。

私たちが、何かに感情を揺さぶられる時は、よいことも、そうでないことも、その中に必ず自己の投影を見ているのだと思います。その対象が、あなたのいう、身近な人や、本や、歴史や思想、私の外にある全てなのだよね。そういう関係をなんて言うのか。結局は「私」なのではないでしょうか。
「私」の身に起こることも、関わる人も、全て「私」が引き寄せているような、そんな気もします。

こんなことを、ゆっくり話せたらいいなぁ。もうすぐ会えるね。帰るよ。

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