日本語の複合動詞について最近考えたこと

「散らかす」という接辞がある。

言うまでもなく元々は動詞で、「撒き散らかす」「叫び散らかす」のように四方八方への動き、といったニュアンスを付加する言葉である。
僕はこれを「顔面終わり散らかした」のようにただの強調として用いることがあるのだが、よく考えてみると変な派生だ。一体どこからこの発想が生まれてきたんだろう、と思い、先日風呂場で「散らかす」のつく動詞について考えを巡らせていたのだが、するともっと不思議な謎が浮かび上がってきた。


なぜ、「泣き叫び散らかす」はダメなのだろうか。



「叫び散らかす」とは言えるし、「泣き散らかす」も(これには物言いが付いたが、バイト先で確認してみたところ大半が肯定的であった)言える。「泣き叫ぶ」という複合動詞にも何も問題はない。
ところが、「泣き叫び散らかす」とは言えないのだ。

考えてみれば「撒き散らかす」は良いが、「ばら撒き散らかす」とするとかなり容認度が下がる気もする。なぜだろう。
もしや、接辞・動詞は計2つまでしかくっつけないのだろうか?

そう思ってあれから色々と考えたり人に聞いたりしてみたのだが、当然ながらはっきりとした結論のようなものは出ていない。別に適当に考えているだけでハナから何かを論じようとする気は無いのだが、ただなんとなく傾向というかそういうものは少し見えてきた気がするので、それを書き残しておくことにする。


まず、この性質は「散らかす」に限らない、ということはすぐに見えてきた。
「投げ下ろす」「投げつける」はともにいいが、「投げつけ下ろす」はおかしい。
「放り込む」「放り入れる」「放り投げる」は全て問題ないが、「放り投げ込む」になるとやはりどこか変だ。
接頭辞についてもそうで、「殴り返す」よりも「ぶん殴り返す」はちょっと奇妙に聞こえるし、「殺しあう」と「ぶっ殺しあう」にも同じことが言える。

バイト先でこの話を出したところ、「躍り狂い明かす」なんて例も出てきた。
確かに意味はわかるし、むしろ存在してもいいはずなのに、「踊り明かす」よりは不自然だ。


では、単純に接合できるのが二つまで、となるかと思ったが、話はそう単純ではなかった。
一部の動詞や接辞は複合動詞に接続できてしまうのである。

最初に思いついた例は「まくる」だった。
「投げ込みまくる」「ばら撒きまくる」「突き刺しまくる」全て可能だ(突然思いついたので「突き刺す」の例を出したが、付言しておくと「突き刺し貫く」はおかしい)。

そして、「始める」「終わる」もまた接続できる。
「泣き叫び始める」「ばら撒き終える」などは僕の感覚では全く問題ないし、少なくとも「散らかす」をつけたときよりは良い(「ぶん殴り始める」とかはかなり微妙だが…)。

「続ける」「かける」も同じで、「泣き叫び続ける」「突き刺しかける」といった表現に違和感を抱く人は少ないように思う。

「まくる」はともかく、容認度が高いグループはいずれも「時間軸」に関係しているというのはかなり興味深い。「開始」「終了」「継続」といった行為と時間との関連を示すものはどうやら語彙の中でも特別な性質を帯びているらしい。


ということで、現状の結論はこんなところ。
・動詞に接辞がついたり、動詞が接合して一つの動詞を形成することは日本語では頻繁に起こるが、3つ以上の接合は基本的にない
・ただし、最後につくものが行為と時間との関係を示すもの、あるいは単に動詞を強調するものであれば例外的に許容される

ただ全部が全部そうかというとそうでもなく、例えば「終了」に属するであろう接辞「切る」(cf. 「やり切る」)が複合動詞の後に来れるかというとやや怪しい。
「出し切る」と「押し出し切る」「絞り出し切る」の自然さにはどこか差があるように感じてしまうのだが、どうだろうか。

また、強調であればいいのならなぜ「殺しあう」と「ぶっ殺しあう」の間に差が生まれるのかは正直わからない。前につくか後につくかで差が生まれているのか、それともカジュアルな表現ゆえの不自然さなのか。ただ「〜しまくる」と「ぶっ殺す」「ぶん殴る」はカジュアルさでいったら大差ない気もする。母語ながら、謎は尽きない。


初めてnoteで言語の話を書きました。
専攻は英語学なものの、ゼミで日本語の複合語アクセントをやって以来日本語のことをより強く意識するようになった気がしないでもないですね。それでは。


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