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【小説】ぼくとおじさんと ep.4


「結婚というより、多美恵との生活と言った方が良いだろう。僕たちは結婚式を挙げてなかったからね。」
おじさんは僕たちの顔を覗くようにして、やがて眼は店の奥に視点を定めて話し出した。
「多美恵との出会いはアルバイト先のケーキ屋だった。俺はそれまで働いていた仕事先が潰れて食えなくなったので、とりあえず選んだ先だ。
多美恵は房の中でケーキやパンを作っていた。いつも俺のことをお兄ちゃんと呼んでいて、俺は別に気にしないでいた。」
「そうだ、いつもおばさんはおじさんを”お兄ちゃん”と呼んでいたね。ぼくはそれを不思議に思っていたんだ。」
ぼくはおじさんの語るおばさんを思い出しながら、当時の風景が脳裏に浮かんだ。
冬の寒い日、高校からおじさんの家の前を通り過ぎようとしたらおばさんがいて”武志くん寒いでしょう。暖かい甘酒あるから飲んでいってよ”と、声を掛けてくれた。”ぼくはお酒は飲めないよ”と言うと、”馬鹿ね。アルコール入ってないわよ。体にいいから。寒いし、体にいいから”と勧めてくれた。そして美味しかった。甘酒もそうだったが心の温まるおばさんだった。
そしていつもおじさんのことを”お兄ちゃん”と呼んでいたことを思い出したのだ。
「そうだね。多美恵のことから話そうか。
多美恵は養護施設に入っていたんだ。親が亡くなったり、虐待を受けた子供が入るところだ。
多美恵は自分の過去を話すことはなかった。おそらく親の顔も知らない幼いころから施設に入っていたのだろう。
施設では18歳になると、施設を出なければならないのだが、身寄りもない子供たちが放り出されても行くところもないのが現状だ。
可愛い子は水商売に行くのが普通だと多美恵は言っていたが、容姿にも社会生活にも自信が無かったので里親の元からケーキ屋に雇われたのをきっかけに、そこに働き続けていたんだ。
仕事を覚え、パン作りの厨房に入ることになってアパートを借りて自立することになったと言っていた。丁度その頃、俺と知り合ったわけだ。」
「おじさん、もてたんだ。」ぼくは合の手を売ったつもりだったが、おじさんには何の効果もない。
「少なくとも俺が悪人には見えなかったという事だろう。
暫く二人で茶店で話をするようになって、多美恵も安心できたのだろう自分の素性を話し始めた。
お兄ちゃんというのは、多美恵が施設にいる時から相談相手のお兄ちゃんが欲しかったらしくて、俺にお兄ちゃんと呼んでいいかと言って来たんだ。」
文も納得したようで
「私もおばさんがおじさんを呼ぶときの”お兄ちゃん”に納得できたわ。それで結婚してからも”お兄ちゃん”だったんだ。」
「小さいころからお兄ちゃんが欲しかったようだ。”私を守ってくれて、私の歌を聴いてくれる人”が多美恵の求めるお兄ちゃんだと言っていた。歌は上手で二人でよくカラオケに行ったもんだ。俺は歌は苦手だが、多美恵は確かに歌はうまかったし、何よりも歌う表情が豊かだった。彼女に自由があるとすれば、歌う時が何ものにも束縛されない自由な時だったのかも知れない。仕事でも家でもよく唄っていた。」
「で、いつ結婚したの。その辺知りたいよな。」
ぼくはひやかしを込めておじさんに訊くと、文も顔でうなずいている。
「そうだな。ひょんなことで務所に入ることになってしまったが、文はそんな俺のところに面会に来てくれたり差し入れをしてくれたりしたんだ。務所に入っている間に親父が亡くなり、その前にお袋も死んでるから結局両親もいなくなった俺に多美恵は唯一俺を知ってくれている人だったし、いつも面会では”いつまでも待っているから”と言ってくれるただ一人の人だった。
だから俺はここを出たら多美恵に恩返しをしたい、世間並みの幸福を味わっていない彼女の幸せに尽くしたいと毎日考えていた。」
そうか、おじさんとおばさんはそれから結婚したんだ。
「務所を出て、俺は多美恵を呼んだ。結婚しようと言ったのだが、実際は家の中の掃除と整理が目的だった。古い家でボロボロになっていて、兄貴たちも俺に任せると言ってくれたが、古いものの片付けや余分なものを処分すると結局何も残らなかった。」
「何だ。結婚といっても、おじさんにはおばさんは片付けの手伝いでしかなかったの。色気のない話だね。もうちょっと何かあるでしょう。」
それでもぼくはおじさんの話を聞きながら、おじさんの真面目に話す顔を見ていると、いつしかもう一つのシビアな現実に嵌り込みそうになる自分が怖いという予感がした。それは貧しい中で活き活きと暮らしていたおばさんを思い出していたからだ。そんなどん底に僕までがはまり込む、それは何もできない、ぼくのありもしない結婚への恐怖でもあるのかもしれない。結婚なんて考えられない僕に、結婚という言葉は憧れであり恐怖でもある。これ以上貧乏になりたくないという思いから抜け出る事はないだろうが。
おじさんのささやかだった結婚生活に賛辞を送りながら、ぼくは震えていた。
「結婚といっても式を挙げたわけではない。武志のお父さん、つまり俺の兄貴が多美恵の里親を呼んで実家の庭で酒宴をあげてくれたのが多美恵にとっての結婚式だったし、暫くして入籍した時は本当に喜んでくれた。」
おじさんの話に僕たちは耳をそばだてていた。
僕たちの知らない、おじさんの結婚とおばさんのことは今初めて聞くことだった。
「多恵美が言っていた。施設ではみんなが一人だった。社会に出ても生き方が分からない自分たちに、明日という言葉はただ不安の代名詞だった。そんな一人ぼっちの自分が結婚するなんで夢のまた夢だった。ましてやお兄ちゃんと一緒になれるなんて、と本当に喜んでいた。」
店舗の奥に、また視線を映しながら、おじさんはおばさんを思い出すようにして語りだす。
「今の人たちのようにマンションに住んでいると分からないが、古い一軒家というのは別世界だ。
隙間風が入ってきて風の吹きすさぶ音、雨の降る音としたたる音など寝遅れるとそんな音に悩まされる。ましてや冬など布団を重ねても寒さは防ぎきれない。もっともあの時、値の張る暖かい布団なんて買えなかったからな。夏蒲団のままだったな。
そんな時、多美恵がお兄ちゃんと言って寄り添ってくるんだ。二人で抱き合って寝るとお互いの暖かさで寝ることができる。武志の言っていたその他大勢の庶民にとって、寒い冬は抱き合って寝る事で暖を取り、家族を増やしてみんなの体温で寒さをしのいだことだろう。
大家族がシステムとして続いたのは、肌の触れ合う家族が生存の唯一の存在であり、老若男女ともに助け合って家計を支える事で子孫が続く、即ちその他大勢の人間の歴史が作り上げたものが今の俺たちの生きている事の証明なんだ。そうだろう武志。」
おじさんは話を僕に振った。ぼくはうなずくしか答えようがない。見ると文もうなずいている。
「風の音がうるさい時には多美恵が謳ってくれる。色々な歌詞を良く覚えていて、俺はそれを子守唄のように聞きながら寝ていた。いつも手だけは握り合っていた。
一度コオロギの声でうるさい時、多美恵が負けじと歌い出したことがあった。思わずうるさいと言ってしまったが、握っている手の指に力を入れると分かったようで歌が止まった。それでも嬉しそうな彼女の笑い声が耳元で聞こえた。
彼女は楽天的なのか、どんなことにも負けたくない強さがあるのか、そんな彼女が俺は好きだった。それがたとえ彼女のカラ元気だとしても、俺を思ってくれる彼女の気持ちが分かるから、どんなことがあっても彼女を幸せにする、俺は金持ちにはなれないと思うがどんなに貧しくても彼女を泣かせることが無いよう頑張ろうということがあの頃の俺の生き方だった。」
「おじさんの話を聞いていると、おじさんが幸せだったのかおばさんが幸せだったのか、結婚という言葉より夫婦でいる事の重さを感じるね。
僕には結婚なんて考えられないから、おじさんが羨ましいというより、上手く言えないけどおばさんのような存在は必要なのかも知れない。
ただいずれはどちらかが死に、また一人になるのなら最初から一人がいいと思うしかないよね。」
「そあだな、彼女が泣いたことがあった。癌だと言われて、しかも余命があまりないと宣告された時だった。俺も泣いたが彼女も泣いた。彼女はどんなに具合が悪くても人には自分の状態をいう事はなかった。自分が休んで他人に迷惑をかけたくないというのが理由だ。もちろん心配かけまいと俺にも言わなかった。だからもっと早く俺が分かればこんなことにならなかったのにと俺を責めた。
そんな俺を見て多美恵が言ったのは、良くしてくれた兄ちゃんにもっと尽くしたかった。途中で死ぬなんてお兄ちゃんに申し訳ない、なんてことを言うのだ。
俺は病院の先生にも、ほかの病院にも当たってみたがカルテを回し見すると全て断られてしまった。癌も末期だったからね。
最初入院させたが、多美恵が家に帰りたいという。お兄ちゃんのそばに居たいという彼女を引取り俺は彼女のそばを離れずにいた。
彼女の最後の言葉は”お兄ちゃんごめんね”だった。」
上を見上げたおじさんの目に涙が光った。ぼくはおじさんを泣かせるために話を聞いたわけではない。おばさんとの思い出も、時間が過ぎて気持ちの上で吹っ切れていると思っていた。
文を見るとハンカチを取り出して泣いていた。
「おじさんごめんね。ぼくはおじさんを困らせようと思って聞いたのじゃないんだ。辛い思い出を思い出させて、申し訳ない。」
「いやいや、ごめん。辛い思い出なんかじゃないんだ。楽しかった思い出を思い出していたんだ。
確かに多美恵が亡くなって、気持ち的には落ち込んでしまった。幸薄かった彼女に何もできなかったこと、彼女の異変に少しでも早く気づいていたら彼女を助けることができたのではと自分を責めてばかりいた。
くよくよ彼女を思い出しているうちに、これは時がそうしてくれたのかも知れないが彼女は僕に楽しかった思い出を残してくれた、これは彼女の僕へのプレゼントだったのではないかという事に気づいたんだ。
これは誰にも持つことができない、俺の大事な財産なんだ。だから俺は彼女が喜ぶようなことをして、あの世に行ったらそんな話をぶち開けて彼女に喜んでもらおうと今思っている。」
おじさんはそこまで話して言葉をつぐんだ。
目は店の奥をじっと見ている。昔を思い出しているのだろう。
「さあて、俺の話はこんなもんだ。なんの参考にもならないがね。」
おじさんは言い終わると酒をコップに注ぎ足した。そして僕たちの顔を見渡して一呼吸する。
そしておじさんはぼくに向き合った。
「つまらない、俺だけの世界をさらけ出して言うのもおかしいが、武志は結婚というものをどう思っている。」
また始まった。ぼくは、結婚はしないと決めている。だからおじさんの問いかけには応えようがない。
「おじさんはおばさんと結婚、いや、一緒になって何か変わった?
人は一人では生きられないと言うけど、おじさんにとっておばさんと出会って何か生き方変わったと思う?」
「そうだな。多美恵と出会った頃、良く言っていたのは大学に行きたかったという事だった。
施設を出て、上級の学校に行くのは自己資金の無いものにとっては難しいことの一つなんだ。
それでも一緒になったころには、そういうことも言わなくなった。
それまでは、世間のみんなと同じことをしたいと思っていたのだろう。
そんな漠然とした憧れはいつも多美恵が持っていた心の闇だったが、そんな心の空間も僕たちが協力して生活する中で彼女自身が埋めていったのかもしれない。だんだん顔色も物の見方も変わっていったからね。一緒にいるとそれが分かる。
俺の変化というより彼女の変化は感じたね。
ただ、そんな多美恵がいつも言っていたのは”東京には空がない”という事だった。」
「空って、高村光太郎の智恵子抄のこと? あの有名な、東京には空がない、ほんとうの空が見たい、というやつ?」
「いや詩のことではない。千葉の施設からは何もない緑の野原と見渡すと広い空があって、夜には満天に星が輝いている。そんな星を見ていると心が晴れるというのだ。
そんな星が見られないお兄ちゃんが可哀そうだというのだ。
俺には目の前に見える現実しか知らないし、田舎で星なんか見てもきれいだとしか感じないが、彼女にとっての星の群れは、その一つ一つに思い入れがあって、俺よりも大きな世界を見ているようで、そんな星空の話をする彼女に、俺よりも広い世界を持った人のように感じたことがあった。
楽しかったことは沢山あるが、夜に天井に見える羽目板のコブシのような流線型を二人で追いながら物語を作る事も楽しかった。
彼女がその形からヒトの顔や動物のことを話題に羽目板の模様を追いながら物語を作り出す。その続きを僕が受けて彼女に投げ返す。彼女が続けて色々な物語が毎晩でも続けられた。
僕たちには子供もいなかったしペットもいないので、そんな羽目板の物語が昼間の話題になる事もあった。
だから彼女に、物語や想像することの楽しさを教わっていた。一人ではできない事だった。
だから彼女が死んでマンションに移ってから、羽目板も何もない天井を見ると彼女のいない懐失感を感じて寂しかった。
彼女のいない古い一軒家に居られずマンションに移ったのだが、窓を締めると風の音も雨音も虫の音も聞こえない。
マンションに生まれ育った人にはそれが当たり前かも知れないが、静かだという事は彼女がいない事、俺にとって多美恵の存在は生きていく上で大きな存在だったのだと改めて思っている。
だから武志の言う、俺たちは一人で生きているのではないという事は実感として、そして肌身で理解できるものなんだ。
そうそう、俺が彼女と一緒に暮らして彼女が俺にくれた大きなものの一つは時間だ。
多美恵が病院から戻ってきてからというもの、時間がそして一日がどれだけ大切な物か思い知らされた。
彼女が生きてくれた一日、そして俺が彼女にしてあげる事の出来る時間がどれほど大切なのかがあの時分かった。
だから今でも一日の過ごし方や時間の重さも感じることができるのも、彼女のくれた宝物なんだ。
今日こうして文ちゃんや武志と話ができる時間は楽しいし大事な時間なんだ。」
漠然と過ごしているぼくの一日は何だろうと思ってしまった。これはぼくの反省というものではなく生きている事の意味をおじさんは言っているのだろう。
すると文が話し始めた。
「星で思い出したの。おばさんの言う星空、見方は違うかも知れないけど、小さい時田舎のおばあちゃんが沢山の星を指しながら”あれは死んだ人が星になったのだよ”と教えてくれたことがあって、”私も死んだら星になって多美恵を見守ってあげるね”と言ってくれた。だからおばあちゃんが死んだ時、必死におばあちゃんの星を探したことがあったの。
さっきおじさんがアメリカ大陸での虐殺の話をしたとき、ひどい話と思いながら、ふとおばあちゃんの話を思い出して、どれだけ多くの人が殺されてあの星になったのかと思ってしまった。
科学的じゃなくて申し訳ないけど、数えられない星の数を考えたら、その他大勢という無名の人々の命と星が重なってしまった。生きたいと願いながら生きながらえなかった人たちの無念さと、その生きたかった地上への思いを感じてしまう。
おばさんがどんな思いで星を見つめていたのか、私には理由はないのかもしれないけど星の話をされて涙が出て来てしまったわ。」
文の話は唐突だったが、その他大勢を理解してくれたのかと僕は思っていた。
ただ、おじさんから返された僕の言葉の返事は、ぼくの心に深く刺さっていた。
文とのことを思って「結婚」という事を言ったのだろうが、確かにぼくは文が好きだと思う。
でも、ぼくには「結婚」は出来ないという心の掟がぼくを支配している。だから定期的に文と会って心の重荷をほぐしているのだ。
そんな文をぼくのことで縛ることは出来ない。文にはこんな僕から自由で、そして幸せになってもらいたいと思う気持ちも心の隅には存在している。
「文はどう思う。さっきおじさんが言ってた結婚の話。文は可愛いから見合いの話しも来てるだろうし、文にはもう好きな人もいるんじゃないか。」
ぼくは文に話題を振ることにした。
「文ちゃんは結婚をどう考えているのかな。」
おじさんも促す。
文はぼくを睨むかのようにぼくの目を見てからおじさんに向き直し話し始めた。

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