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ぼくとおじさんと - 僕と文乃の一日

番外編⑤ 僕と文乃の一日 ep.3

隆俊おじさんのマンションには、いつもおじさん連中が集っては話をしている。
酒が主食なのか、ご飯は副食でおかずも酒のお供だ。
文乃が買ったモンブランのケーキは、おじさんたちには異色の絶品だろう。
安堂のおじさんはしげしげと眺め、そのまま口に頬張って酒で流す。
隆俊おじさんはソファーに座りながらケーキをガラステーブルに置き、手を合わせて食べていた。小さなテーブルを前に右横はいつもおばさんが座っていた場所だ。
隆俊おじさんは、ニコニコしながらケーキを食べていた。そばにおばさんが居るのだろう。
僕たち二人はハンバーグを食べ終え、ケーキをつまみながら文乃が安堂のおじさんに質問を始める。

「憲法は、その条文を含めて説明会をしていただければ私も時間を見て参加したいわ。
今日、おじさんの話を聞いていて一つ気になったことがあるの。
『日本国民』で憲法前文が始まるのだけれど、憲法第二章第10条で『日本国民たる要件は、法律でこれを定める。』となっていて、以下では『国民』『すべて国民』や『何人も』と続いているのだけれど、ここでは日本人とは言っていない。
自然権的な人権の尊重がテーマで、世界人権宣言の趣旨と照らし合わせると国籍に関係なく日本国内にいるすべての人が対象になると思うの。
だから『日本国民たる要件は、法律でこれを定める。』というのは憲法の下位法としての国籍法で日本人を規定しているけれど、ここでは日本人は憲法で言う国民を形成する一部でしかないように思うのですが。
実は、私のいる研究室には外国から一緒に研究に来ている人もいて、日本人と結婚している人もいる。同じように税金を払い、一緒に買い物に行き共に日本で生活していることを考えると、日本という国に住む日本国憲法の国民ではないかと思うのですが。」
安堂のおじさんはニコニコして答えてくれた。
「そう。確かに日本人とは言わないよな。
日本国に住んでいる人は日本人だけではない。そして憲法では『わが国全土にわたって』と説明して憲法の及ぶ範囲も説明している上に、憲法の下位法にあたる内閣法や国会法などで作られる政府に対しても、政府の行為によって戦争の惨禍が起きることのないようにとくぎを刺している。
だから国民を規定するのは下位法としての国籍法だけではない訳だ。
日本に住むすべての人が日本国民なのだ。だから自然権に基づく人権の精神と観点から謳われた世界人権宣言でも『すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教』そして『民族的もしくは社会的出身』等で差別を受けることを禁止し、『その人の属する国』に対しても差別をしてはいけないとしている。差別つまり区別してはいけないので、民族や国の区別なく平等に日本国憲法は権利を保障すると言っているのだ。
最高裁の見解でも、昭和50年のマクリーン裁判でだが憲法の『基本的人権の保障は権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、我が国に在留する外国人に対しても等しく及ぶものと解すべきである。』と説明している。
ここでは、米国人に対する政治判断を国内法に限定して下しているが、日本国民を日本人に限定していないことがわかる。」
僕は文乃が下位法なんて聞きなれない言葉をいうのに驚いたが、大学時代にそんな言葉を聞いた記憶がある。
ただ、日本国憲法が理想とする国づくりだとすれば、今の国づくりは僕の目からも見ても少し違う気がするのだが。

隆俊おじさんが話し出す。
「マクリーン裁判と憲法の話と、砂川事件と憲法の話に関して一言いいたいのだが。」
安藤のおじさんが隆俊おじさんの話にストップをかけた。
「隆俊、文ちゃんの話をちゃんと聞いてやれ。武志も何かあるか。隆俊の話は、その後で良い。」
文乃は「分かりました。日本国憲法が素晴らしいことは分かりました。」
と言うなり僕の膝に手をかけ
「何かある?」と誘いをかける。
「理想的な憲法なのは分かったけれど、今なぜ憲法改正という話が持ち上がっているの。」
憲法をそんなに理解していない僕にとって、憲法改正が言われる流れが分からないでいる。
だからこそ聞いてみた。
安堂のおじさんが酒で喉を潤して話し始めた。
「今の改正論議は9条の戦争放棄が主軸なんだ。戦争ができる国づくりと言うことだ。安倍政権ではそこに自衛隊を入れて、国連軍としての集団自衛権を機能させようという思惑がある。この辺の話に関しては隆俊に任せるが、日本国憲法は世界でも有数の言葉数で言えば短い憲法なんだ。
しかもその多くは人権の保護で、手を加えることのない理想的な憲法として存続していた。世界で177の憲法があり、メキシコなどは100年の間に240回も憲法を改正している。これは政情不安と言うこともあり、その都度国づくりの枠を変えてきたと言うことがいえる。憲法改正を党の政策として掲げていたのは戦後自由党だが、当時の民主党と一緒になった今の自由民主党が主張している。その根拠は、日本国憲法はアメリカの押し付け憲法だと言うことにある。戦後の憲法づくりはGHQのマッカーサーによって押し付けられたというものだが、当時のGHQの上には極東委員会があって、天皇制や戦争放棄などはアメリカの意思の表れだった。マッカーサーやGHQが日本国憲法を作ったのではなく、実質的には極東委員会を構成していたアメリカ、オーストリアやインドなど戦争を反省し平和な国づくりを日本に期待した人々の手で起草され、日本の国会で検討されて成立したもので、議会を通したものだった。法手続き的には、まっとうなやり方でできた憲法なのだ。
ところで、戦争の責任で天皇を持ち出すことは日本の統治に関して困難になる事をアメリカが良く知っており、東京裁判でも日本の戦争責任は曖昧にされたままだった。有名な細菌・人体実験研究した石井部隊は不問にされたし、A級犯罪人には海軍はおらず、A級戦犯に挙げられた人間がそのまま釈放され戦後の首相にまでなっている。不十分・曖昧なままでの東京裁判では戦争犯罪は東条元首相以下7人が絞首刑になっただけで、なぜ戦争が起きたのか、何が原因でその責任がどこにあるか分からないまま終わってしまい、結局戦争に対する総括も反省もないまま終わってしまったというところから日本の戦後が始まった。日本では政府もマスコミも「敗戦」とは言わず「終戦」で済ましてしまっている。ドイツではニュンベルグ裁判で連合国が戦争裁判を仕切ったが、その曖昧性を理解したがゆえにドイツ自身で自己総括の裁判を起こし、戦争の起きた理由とナチスの問題、そこにドイツの人々が巻き込まれてしまったことを自己反省して、現在まで戦争犯罪人の追及を行っている。日本にはこれがなかったことが、反対に戦後日本を大きく狂わせてしまったといえる。
戦後が敗戦ではなく終戦という意識のまま今日まで来てしまっている。
だから戦後の憲法改正が、押し付け憲法という意識で、明治憲法とそのシステムや戦争の原因と天皇制の問題点が不問にされたまま、押し付け憲法から憲法改正で戦前回帰の流れとしてあるということだ。
特に今日の憲法改正の根には、戦前天皇制回帰の神社神道の日本会議や統一教会などのメンバーが今の政権を担っていて、一方に反米の意識を持ちながら結局は金融資本に流されて利用されているというのが現状だ。
戦前の強い国「日本」を夢見てアメリカの手先として、今日の戦争のできる国づくりが今の憲法改正論議なのだ。
ところで憲法改正を考えるには、各国の憲法の在り方も考えなければならない。アメリカやイギリスなどでは、憲法とは様々な前例や事柄を積み重ねて作るので、それを憲法の改正と言うことはある。
それは憲法の目的を維持することが守られた上での改正で、日本で言われている憲法改正では平和な国づくりという目的を変えようという動機での改正案で、これ自体憲法違反なんだ。だから憲法改悪といっていいだろう。
日本国憲法は、少ない文字数の憲法といわれているが、それは基本・目的を定めたうえで細かいことはすべて下位法に任せているので、その大本を変えようというのは憲法違反でそれ自体前文にも書かれている事なんだ。
ここで問題となるのは、理想的な国づくりが出来ないことの批判行使は、主権在民と書かれている我々国民にあると言うわけだ。
我々が選んだ政治家が何もせず、政治でもまた生活の元になる経済でも国民を苦しめているのは、国民の安心安全と豊かさを提供できないという技量・能力に問題があるからで、俺たち国民が、政治家とその政策にはっきりと否と言い罷免する権利を持っていることを自覚しなければならないのだ。」
安堂のおじさんは、口を真一文字につぐんで話を終えた。いつも、それではではお前はどうするのかという質問を含んだおじさんらしい閉め方だ。

安堂のおじさんの話を受けて隆俊おじさんが話し始めた。
ソファーの背に体を預け、つまみを選びながら酒を飲む。
「戦後の改憲論議は『自主憲法制定』というもので、アメリカの押し付け憲法に対抗しようというものだった。
当時の冷戦下、改憲論議も共産主義の脅威を排除しようという名目の下でアメリカ政府からかなりの資金援助を得ていたことがその後の外交文書からも分かるように、アメリカの影響力にドップリ使っていたことがわかる。
実際、極東支配を図っていたアメリカにとって朝鮮戦争で、日本の軍事力の必要を感じていたGHQにとっては、憲法9条の不戦条項は邪魔でしょうがなかったわけだ。
だから警察予備隊、後の自衛隊を作ったのは、ごまかしながら国連軍、実質は米軍の補佐として使っていたわけだ。
今日の改憲論議の一つは、国家緊急権という強制力を伴う措置を求める憲法改正案だ。戦時下の物価統制、国家動員で見た国民主権の抹殺案だ。国家の意思を通すための改悪論だ。
今日のロシアによるウクライナ危機、中国による台湾危機や北朝鮮による核の危機管理に対しての国防上の、そして対処進出を図るものだが恐ろしいことに戦前同様、マスコミが挙げてそのような危機を煽っていることに注意しなければならない。
ウクライナでもイスラエルでもそうだが、政府や一方的な報道だけを発表されたまま報道している姿勢は批判的に見ていかなければならない。
イスラエルでの戦争で見てみよう。
イスラエルで起こっていることは、ハマスのテロに対する戦争と言いハマスの撲滅を戦争の目的にしているが、立ち上がったのはハマスだけではなく、数多くある戦線、ハマスのアル・カッサム旅団、ファタハのマルワン・バルグーデイを指導者と仰ぐアルアクサ―殉教者旅団、PFLPのアブアリ・ムスタファ殉教者旅団、それからイスラム聖戦機構、そのほか諸々の小さなグループを含めて、解放勢力皆で起ち上がらざるを得ない絶望的な状況での戦いなのだ。そして一般市民も参加している。
だから一部のシオニストで作られた現イスラエル政府が言うように、敵をハマスに集中して攻撃しているイスラエルは、ハマスの壊滅を目的としてパレスチナ人の殲滅戦をやっている。
ところで、パレスチナをシオンの地、ユダヤ人の土地であるというドグマで100年前に作られたシオニストの集まりは、ユダヤ人の中の少数者なのだが金に任せ例のイギリスの三枚舌の一つロスチャイルドの軍資金援助を求めて出されたバルフォア宣言(1917年)と国際連盟によるパレスチナ委任統治決議(1922年)により第一次大戦後イギリスの統治下にあったパレスチナにユダヤ人の移住を進めた。そしてその後ナチスと結託して帝国ユダヤ人同盟を作り(1939年)、それ以前1935年にドイツ客船を購入してナチ党員を船長としマストにナチの鉤十字を掲げてユダヤ人移民輸送を進めている。
ナチの理論的指導者と言われるローゼンバークは1937年、シオニズムを積極的に支援すべきと言い、ユダヤ人をパレスチナに送り出すべきだと言い切っていた。
1919年ではパレスチナでのユダヤ人は9%の人口だったのが1939年には30%で、1933年頃からユダヤ人入植者は激増しているがナチズムの援助なしではありえないことだった。
そのような中で、ナチのホロコーストもシオニストがユダヤ人選別を行ったと言われている。ナチに金で奉仕できるユダヤ人とそうでないユダヤ人を選別したと言うことだ。
シオニストの運動はヨーロッパに広がっていたユダヤ人差別が根幹にあり、それは以来ヨーロッパの抱える問題として、イスラエル建国と横暴に対して目をつぶってきたことで明らかなことだ。
そんな彼らシオニストは戦後、ホロコーストを非難しているが彼ら自身の事は不問にしている。
実際、ホロコーストに関してはイギリスやフランスにしてもドイツ・ナチスのユダヤ人の強制捕囚は周知のことで、どこに送られて何をされていたのかを知っていた。ヨーロッパにおけるユダヤ人差別・排斥の中でのことだった。
戦後、帰る場所を失ったユダヤ人をパレスチナに追いやったのはイギリス、フランスの国々で、当時はパレスチナに渡るユダヤ人よりアメリカに移民したユダヤ人の数が多かったが、アメリカもユダヤ人移民の規制をかけて結局戦勝国国連軍つまり今の国連が1947年の総会でパレスチナにユダヤ人とパレスチナ人の二つの国家建設とエルサレムを国際管理に置くことを決議したのだが、一方的に土地を奪われ続けたパレスチナ人やアラブの人々は当然猛反対する。その決議とは、パレスチナ人よりも人口比で少ないユダヤ人にパレスチナ人よりも多くの土地を与えるという理解不能の内容だった。
つまり、それまでパレスチナに居たユダヤ人はパレスチナ人の3/1に満たない60万人に対してパレスチナの60%の土地を与えるというもので、それまで暴力的にパレスチナ人の土地を奪い彼らを殺戮してきたユダヤ人は、それ以降土地収奪を図っていった。
1948年には軍備を整えアメリカ、イギリスの支援で第一次中東戦争が起き、1956年、1967年、1973年と4次に渡る中東戦争が起きている。
1993年イスラエルのラビン首相とPLOのアラファトとでオスロ合意が締結されヨルダン川西域とガザ地区でのパレスチナ人居住が開始された。1995年ラビン首相が暗殺されたことで、それまでどのような国造りをするのかの未調整の内容が残ったままだった。
10月7日のパレスチナからのイスラエル攻撃に関しては、イスラエルからの一方的な報道を日本政府は支持する立場だが、軍事力・戦闘力のあるイスラエルの一方的攻撃とジェノサイドに対しては国際世論も反対の流れになっているが、日本のマスコミは体制追随のままの報道しか流せていない。
インテフェーダーで捕まった子供たちが刑務所に入れられ、取り調べで暴行され死んだ子もいた。
ガザでもパレスチナ人が家にいてもイスラエルの兵隊が勝手に入り込んで悪さをしていく。パレスチナに行った友人が言っていたがヨルダン川西岸やガザでは行政権はあっても警察権がなく、イスラエルが入植地を勝手に作りそこのパレスチナ人を追い出しても対抗する警察権がないので現在でも強権的な土地収奪を進めている。
10.7の攻撃を世界が非難するが、その直前のヨルダン川西岸のパレスチナ人200名の虐殺はどこも報道していない。
10.7の戦いとは、イスラエルがアラブ諸国と友好関係を結び平気でパレスチナ弾圧を進める中での住民からの死活・報復闘争なのだ。
そしてイスラエルは、これ幸いにパレスチナ人の殲滅戦と1998年エジプトに行ってニタニヤフが話していたシナイ半島へのパレスチナ人強制移住計画を実施しようということなのだ。
例えばガザに本当に自治があったのか。否だ。イスラエルはパレスチナ住民から税金を代理徴収していたが、今回の件では住民に還付されていない。生活、食料から締め付け爆弾で殺しまくる。
戦争とは国と国の戦いと思われているが、今回の戦いはイスラエルという国とパレスチナ人という人々との戦いで、軍事力も桁違いの戦いなのだ。
ここで問題になるのは、シオニストが国づくりをしてきた結果パレスチナ人は野蛮なテロリストで国とユダヤ人を守るために彼らを殺さなければならないと言うことを国づくりの中で親子3代にわたって教え続けてきたので、子供でもパレスチナ人の遺体に平気で唾を吐くと言うことだ。このことが今回のいわゆる「戦争」をより残酷にしている。
イスラエル軍の若者が平気でパレスチナの子供たち、女性、老人、病院に攻撃を仕掛けるのは、そんな教育の結果でもあるだろう。」
そこで僕は質問をする。深く考えたわけではないが僕の倫理観からだ。
「パレスチナを支持する人が、ハマスが仕掛けたのは許せないという記事を見たのですが。
やっぱり戦争は仕掛けたらだめですよ。
実際、イスラエルの国民も殺されている。やっちゃいけないことをしたのではないですか。」
隆俊おじさんは僕の質問に嬉しそうにコップに酒を継ぎ足して答えてくれた。
あれは僕の質問が嬉しかったのではなく、酒の継ぎ足しが嬉しかったに過ぎないのかもしれない。
「私も尊敬する中東の専門家も同じことを言っていた。それから彼の本は読まないことにしたが、10.7は抑えきれないパレスチナ大衆の戦いの日として残されるだろう。
戦後一貫してパレスチナでは殺し合いが繰り返し続いている。
戦後、イスラエル建設でパレスチナ人が殺された。やられたらやり返せが続いて今日に至っているという言い方が適切かどうか分からないが、後先で言えばそうなる。
ただ、イスラエル人の平和の感覚とパレスチナ人の平和の感覚は全然違うと言うことだ。
これは今の日本にも言えることだが、何もおびえることのない平和というものと、飢えや死の恐怖の中で生きていることが平和と思う感覚の違いにつながる。
そして大事なことは、イスラエルという巨大な軍事力を持った国と民衆との戦いだと言うこと、ハマスがやり玉に挙がっているがそうではないこと、そしてアメリカ、イギリス、フランス等ヨーロッパなどがこの戦いをどう見ているかと言うことだ。
国連でも、民族自立の戦いは認められているのだからな。
例えば1960年の国連総会でも「植民地と人民に独立を付与する宣言」でも、人民が支配の弾圧、抑圧から戦いをすることを認めているわけだ。
確かに戦争はいけないし、日本は戦争反対で中東に行かなければならないはずだが、そうしていない。
俺たちは、パレスチナ人が平和で安心して暮らせる生活と、そして彼らがどのような国づくりをするかということを見守り、支援していかなければならないだろう。
その意味でも、まず弾圧・殺戮を辞めさせ、戦争を辞めさせなければならない。」

安堂のおじさんが口を挟んできた。
「武志、少しは分かったか。隆俊、お前の気持ちも分かるが、これ以上話したらいつまでたっても終わらないだろう。文ちゃんも武志もせっかくの休みだし、どこかで終わらせて二人だけの時間を作って上げなくては駄目だよ。」
隆俊おじさんは頭をかいて、安堂のおじさんに謝っている。
隆俊おじさん、謝るなら僕と文乃にしてほしい。僕たちの時間が潰れてしまった。
とはいってもこんな時間、次に何をするかという予定もなく、文乃と一緒に今晩何を食べようかという話になりそうだ。
安堂のおじさんの親切はありがたいのだが、いきなり追い出されるような不思議な気持ちだ。
文乃が僕を見ている。僕の顔を見て安堂のおじさんに振り向く。
「安堂のおじさん。
隆俊おじさんも、もっと話したそうだし、私たちも休みと言っても昨晩友人と呑んで騒いで楽しんだの。
休みと言っても、私はこうして武志と一緒に居られるだけでうれしいの。
おじさんたちの話は私たちにとって新鮮で、隆俊おじさんはまだ話足りなそうだし、こんな時間って滅多にないし、私にとって研究以外に頭を働かせるなんて事ないので、いい刺激になるわ。ねえ、武志。」
僕も文乃と一緒にいる事に納得しているので、うんとしか言えない。僕はうなずいたが、ちょっと不安だ。
文乃が安堂のおじさんに応える。
「武志もいいと言っているし、昨晩の飲み疲れで体は疲れているけど、頭はさえてきたみたい。学生時代、理系の勉強で疲れたら文系の事をやれば頭が冴えて勉強が面白かったような、そんな快感があるの。おじさんたちのお話って。」
ちょっと待て、話はこれからも続くのか。僕には勉強の仕方の快感なんて味わったことなんてなかったはずだ。
ここまで来たら腹を据えて、疲れたら文乃の膝を枕にして寝ようと、勝手に考えた。
安堂のおじさんは嬉しそうに話を始める。本当にうれしいのか、酒も注がずに喜んでいる。
「なに? 話をしていていいのか。
年寄りは体も動かないので、話すしか時間を過ごす方法を知らないので、文ちゃんと話できるのはうれしいことだ。
いや、そんなに時間は取らせないが、隆俊も俺も若い皆と話をする機会がないのでうれしいのだよ。
そんなに時間は取らないと思うが、そうだ、夕飯は俺が奢ろう。
武志と文ちゃんの近況の話も聞いて、隆俊の話と俺の話を続けよう。
隆俊はおそらく戦後日本の話になるだろうし、それじゃ俺は明治以降の国づくりの話でもしようか。その前に少し休もう。二人のために。」
休憩があるのか。その上に夕飯の奢りに一瞬の喜びが頭の中を駆けていく。
春まだき、日暮れは早い。たそがれた空を窓から見据えて僕はおじさんのソファーに文乃を誘い、背もたれに体を預けて休憩をとった。

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