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体育会系 vs 文化会系

学校教育の中で、 #部活動 の意味は大きいです。
そこには、体育会系と文化会系の大きな流派があります。

これらの精神形態は、その後の、大人社会にまで持ち越されます。
この2大流派を比較考察し、社会的な意味をまとめてみました。

凝るこる

#体育会系#文化会系 に共通することがあります。
凝るということです。
この凝り性があるため、体育会系は勝利を目指すことができ、文化会系は探求できるのです。

凝らない集団として同好会系を挙げることができます。友達付き合いを大切にする、って集団ですね。
執念深さは無く、友人を大切にすることから、各種集団の中で、 #同好会系 が一番人間として幸せなのだと思います。
体育会系や文化会系に属していると、人間性がユガむ(個人の感想です)。

帰宅部という、集団に属さない人達もいます。
全く属さない、ということは、もったいないと思います。
とりあえず、どこかの集団に属してみて、そこで嫌な思いをしてから、退部すれば良いと思います。
人間関係で嫌な思いをする、ということも、人間社会に対する免疫を作る、という作用はあると思います。


比べる。

同好会系や #帰宅部 の人達の心理状態が安定しているのは、他者との比較をしないからです。
同好会系は、相手に寄り添い、帰宅部は、比較対象がありません。

体育会系や文化会系は、何かと、比べたがります。

体育会系は、人間や集団を相互に比較しあい、勝ち負けに拘りこだわります。
勝ち負けによって、社会的地位が決まるからです。

文化会系も、比べることに執着します。
思考の基本は、比較することだからです。
この記事も、集団を比較することによって、モノゴトを考える枠組みの構築を試みています。


何に価値を置くか

体育会系は、競技や記録保持者を神格化・崇拝しています。
記録保持者を崇拝し、記録の更新を目指すということは、過去に基準を置いているということです。
集団における一体感や「ブレない」ことを重視します。
仮に変わろうとする動きがあるとした場合、集団の構成員全員が変わらねばならないことになりますが、一致団結や「ブレない」ことを教義としていますので、変化することは不可能です。
伝統を重んじることや、いまだに体罰が絶えないのは、そういう理由からです。

文化会系は、万物を批判の対象にします。真理というものは、とりあえず設定している物語に過ぎないのです。どこかの誰かが、今後、より良い真理なるものを見つけるかもしれないのです。つまり、文化会系は、将来に基準があるのです。
自分自身の考え方も批判の対象になりますので、考え方がコロコロ変わる可能性はあります。

ざっくり言えば、体育会系は昭和を踏襲し、文化会系は昭和や平成を見直すことを試みます。
このように言えば、文化会系の聞こえは良いのですが、成果のほとんどは、失敗でしょう。


似て非なる者

文化会系の活動においても、昭和やそれ以前の伝統を重んじる文化会もあるかもしれませんが、私の考え方では、そのようなものは文化会系ではありません。同好会系です。趣味・娯楽です。
ハナシの合うもの同士が「昔は良かった」と慰めなぐさめあい、「伝統」を「ブランド」化し、崇高さを演出します。
そういう意味で、世の中の多くの「文化会」は同好会なのです。

先駆者こそが文化会系だとも言えます。その先駆者を神格化・崇拝したり、先駆者そのものを研究の対象にしているのは、文化会系ではなく同好会系です。
その先駆者を観光資源にして地域おこしを試みる者達は、同好会系から派生した「業者」です。業者は、観光資源としての先駆者の、どこに価値があるのかを理解していない様子です。


手段は何か

体育会系は、肉体です。肉体の能力は、無限に伸長していくと信じています。周囲の者が声援することによっても、肉体の能力は伸びるようです。

文化会系は、思考です。栄養のバランスや適度な運動など体調管理を良好に保つことによって思考能力を維持します。思考能力が伸び悩んでいる御仁がいらっしゃるかもしれません(本人には気が付かないまま)。
周囲の者は、当事者を批判するかもしれませんが、声援する(声をだして応援する)ことには何も意味もありません。


精神活動

体育会系は、「感動」、「頂点に立つ」、「打ち勝つ」、「精進する」など情緒や宗教系の文言で訴えます。
宗教は、いまの時代では、さずがに、遅れているという印象を持ってしまいます。そこで、宗教に取って代わったのがスポーツなのです。

文化会系は、事実や論理性・合理性を重んじます。仮説であれば受け入れますが、作り話を批判・排除します。宗教は作り話です。人間というものは、作り話を信じる生き物だ、という事実は受け入れます。
文化会系とは、議論や情報収集そのものだ、ということです。物理的な場所自体に意義があるのではなく、議論や情報収集それ自体が重要なのです。


問う。

文化会系の本質は、ポジティブな言い方をすると、問うことにある、と言っても良いでしょう。
ネガティブな言い方だと、批判すること、になります。
問いとは、Whyです。

体育会系は、how toを問いますが、Whyを問いません。
Whyに該当する部分は情緒で満たされ、何の疑問も発せられることはありません。


執筆動機

私は次のツイートをみました。


私がこの記事を書こうとした動機は、人間社会において、残念ながら、体育会系が優勢だからです。

ラグビー愛好者は、他の趣味の人を無視して、50万人が住むまち東大阪市 を「ラグビーのまち」にしてしまっているのです。弱肉強食の思想がなせるわざです。

役所は露骨に弱肉強食を主張しません。明るく楽しく広報するのです。
それは、プロパガンダとも呼びます。
多くの市民は「役所がプロパガンダをしている」とは思わないでしょう。でも、それがプロパガンダなのです。

(写真)東大阪市の広報誌
(写真)東大阪市のマンホールのフタ。


集団性と単独性

体育会系は、群れます。弱肉強食を積極的に推進しています。このため、政治的に有利な立場にあります。
集団に属さない者は、まるで、存在しないかのような取扱いを受けます。「ラグビーのまち」における、ラグビーを愛好しない者への処遇のように。

文化会系は、単独です。他者を批判し、自分自身もコロコロ変化するため、社会的に優勢になることはありません。同好会系からも、イヤなやつと映るでしょう。

以上