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読書感想文『カインは言わなかった』

何かに熱中したことが無い。
不真面目というわけではないが、自分より達者な人に対して嫉妬心を燃やしたり、直接戦って負けて、泣くほど悔しいと思ったことが無い。だからか、何かに熱中できる人を羨ましいと常々思っている。

そんな隣にある青い芝生が枯れているところを、私はこの小説に見た。

この小説は、性別も外見も分からぬ人物が、これまた素性の明らかでない男を殺害しするところから始まる。場面が切り替わり、幾人かの視点で進む話がどんどんと交差していき、物語の全容が見えてくる構成だ。

常軌を逸した練習を指示する厳格な監督、初演数日前に練習に来るなと言われた主演、練習に来なくなった主演の代役、音信不通になった主演を心配し調査する恋人、主演の兄弟の画家とその恋人、かつて監督の舞台により娘を失った夫婦。数日後初演を迎えるバレエの公演に関係する彼らのうち、誰が誰を殺したのかを読者は探ることになる。ミステリーの形式としてはフーダニットと呼ばれるものだろう。

私は登場人物が追い詰められていく描写に強い印象を受けた。各人が様々な理由により精神的に疲弊していく描写。特に、尾上が代役に決まってから彼へ降りかかるそれは、非常に痛ましい。

憧れの監督の舞台へ抜擢され、主演の失踪を機に群衆役から主演へと変わるシンデレラストーリー。かと思いきや、積み上げてきたものを全て否定され、悩みぬいた末に辿り着いた新しい物も否定される。さらに公演直前、帰ってきた主演に役を奪われ、群衆役に戻るも振りが踊れず、途中で舞台を降り、去っていく。否定に次ぐ否定、とても正気じゃいられない。

絵のモデルだった澪が豪を殺すに至った過程も物悲しい。
強姦され自信を失った澪は、自分の力強さに魅了され描き続けた豪ならばと心の寄る辺を見出し、それを確かめるように、2人の情熱の結晶である絵を壊してもいいかと提案する。豪はこともなげに、たった三文字「いいよ」と言う。なんでもないかのように、絵の破壊を肯定し、澪のこれまでを否定する。言う方も言われる方も、その心情は計り知れない。

描写以外では、事件解決後、松浦夫婦と尾上の会話で、登場人物の見方が変わるシーンが気に入っている。その結論に辿り着いたのが、代役として舞台に立つために努力し、誰よりも否定され、それでも折れなかった尾上だったというのが、私は大変嬉しい。

読み終わり、本を閉じ、尾上はどういう気持ちだったのだろうと考える。
そうすると、私と尾上の間に横たわる大きな溝に目がいってしまった。何かに熱中した事が無いと言う大きな溝。もしこれが少しでも埋まっていれば、尾上の気持ちがもっと実感をもって理解できたのではないかと思うと、少し悲しくなった。

枯れている時もあったろうが、向こうは芝生で、こちらは砂場。
どちらが青いかは、欲目が無くてもわかる。
いやね、陰気で。

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