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“普通の人”という幻想のお話

 子どもの頃から本を読むことが好きだった。三歳の頃から並外れた活字中毒だったこともあるし、家の近くに巨大な図書館があったこともある。休みの日には図書館に通い、一日中図書館の快適な空間で貪るように読み耽った後、本を限界ギリギリまで借りては帰るのが常だった。お昼ご飯など食べず、時間がもったいないと言わんばかりに本を読んでいた。お腹は空いていたけど、そんなことはどうでもよかった。

 周りの人は皆出来ることが、私には出来ないらしいと気づいたのはいつ頃からだっただろうか。どうやら他の人が皆持っているものが、私には欠けているらしかった。たぶん、本を読み耽ったのはそれも理由の一つだ。本を読めば、その分知識が増える。欠けているパーツが埋まるのだと無意識に考えていたのだと思う。本を読んで、知識を得て、欠けているパーツさえ埋まれば“普通の人”になれるのだと信じ込んでいた。
 発達障害の診断を受け、カウンセリングを受け、自分自身を見直して落ち着いた今でも、頭の中の片隅にその考えはある。

 “普通の人”になれさえすれば、すべてが上手くいく。仕事や勉強で失敗することもないし、妹と弟と良い関係を築けるし、父親にも認めてもらえる。母親にも迷惑をかけないで済む。

 20代が終わるまで、そう考えて生きてきた。30代になってようやく、あたりが見まわせるようになった。お恥ずかしい限りだ。
 図書館に一日中いたのも、辛い現実と向き合わないで済む、というのが大きかったかもしれない。図書館の中は静かで、空調が利いていて、いきなり怒り出す人も、勉強を押し付けてくる人も、わけがわからないなあ、という目でこちらを見てくる同級生もいなかった。あの中で本を読み、本の中の世界に没頭することで、私はたぶん精神のバランスを保っていたのだと思う。     
 本の中の世界では、私は主人公になれた。ここではない別の場所へ行けたし、登場人物は誰も私を傷つけないし、私のことを対等に扱ってくれた。

 こう思う人もいるかもしれない。本を読む時間を、その分友達と遊ぶ時間や、社会と向き合う時間に充てるべきだったのではと。確かにその通りだ。そうしていたら、もっとマシな人間になれていたのかもしれない。ただ、社会と向き合うことは私にとってとても疲れることだったのだ。だからそこから逃げた。当時発達障害は社会に広まり始めたところで、詳しい知識を持っている人はほとんど周りにはいなかった。
 私は本から知識を得て、足りないパーツをなんとか覆い隠し、ひたすらバランスを取り、時には本の世界に逃げ込むことでなんとか生き延びたのだ。

 30代になってようやく気が付いたのは、“普通の人”というのはただの幻想だった、ということだ。SNSを見てみれば、皆様々な思想を持ち、様々な仕事をし、それぞれの生活をおくっている。同じ人など一人もいない。
 もちろん、定型発達と発達障害の間には、見えない線がある。だが、定型発達の人で立派な教育を受け、立派な仕事をし、たいそうな地位にいる人でも、わけのわからないことをする。そして、責任を取ると述べて、謝罪をして消えていく。

 多分、SNSの発達のおかげで“普通の人”という幻想は死につつある。“普通の人”という幻想は、大勢の人達を覆い隠し、基準に満たない人をはじき出し、得体のしれない圧迫感を自分が覆い隠している大勢の人に強いた。“普通の人”という幻想は、はじき出した人々をはじき出した後でも苦しめた。だが、SNSの発達によって人々は皆社会に向けて、自分の考えを容易に発表することが出来るようになった。そうすることで、“普通の人”という幻想は死に、我々は皆個人として認識されつつある。
 もちろん、個人として認識されることにはデメリットもある。我々は皆、自分の主張に責任を持たねばならぬ時代になった。でも、黙ってうつむき、何も言えない時代も確かに終わりつつあるのだ。

 これからどんな時代がやってくるのかは誰にもわからない。世界は少しずつ良い場所になるのかもしれないし、あるいは破滅へ向かっているのかもしれない。私としては、良い場所になりつつあると信じたい。

 30代になり、ようやく私は生き延びるために本を読むのではなく、楽しむために本を読むことが出来るようになった。現実から逃げ出すために幻想に浸るのではなく、誰かに楽しんでもらうために幻想を慈しむようになった。これもまた、良い変化だ。

 いつか私は、“普通の人”という幻想に向かってはっきりと、“あなたが死んでくれてよかった”と言える日がやってくると思っている。
 

 

 

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