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不可能と対峙すること(ザ・プッシュ)

2020年4月16日

 家で仕事をする日だったのに出社をしてしまった。別の人が出社をしてきて気がついた。
 些事を終わらした。ビデオ会議をするほどでもなかったが、みんなの顔を見たいので、映像を繋いだ。鬱々としている人も出てきている。あまり在宅に向いてない職種もある。

 子どものいる人たちは口をそろえる。
「子どもがいるとまともに仕事ができない」と  
そうだよね、と相づちをうつ。
もし、ドラえもんがこの世界にいたのなら、四次元ポケットから、出してもらいたい道具は、ドラえもんの映像だろう。ドラえもんの映像さえながれていたら、子どもたちはみな踊る。父さんも母さんももう目に入らない。どこの家もそうみたい。おかげで仕事ができる。
 通勤の電車は少し空いていた。街を歩く人もだいぶ少なくなった。飲食店はまだ開いている。営業しなければ借金が残るだけ、と知り合いが言っていた。あっという間に資本主義に食べられてしった、我々は、ニホンジンダ。いつ、UFOが降りてきてたんだろう。

 青山ブックセンターの本屋の歩き方vol.1を見ながら、仕事をしている。ドミニク・チェンさんと渡邊康太郎さんが本を紹介しながら歩いていると、遠くで朝吹真理子さんが手を振っている。あ、渡邊さんの配偶者の方ですね。なんかトウキョウシブヤな感じがする。

 『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために』を刊行したのが2月末。ウェルビーイングとこんなに向き合うことになるとは、あまり想像できなかった。想像力が不足しているのだろう。そうなることもありうるはずだった。想像力が足りてない。
 走って登って飲めたら、9割がた私の問題は解決してしまう。幸せではあるけど、そこに他者はいない。残り1割もとても大切。くわばらくわばら。

 帰二子玉川の河川敷に人はいなかった。毎年晴れた日には、平日でも子どもと遊ぶ家族やバーベキューをする学生たちで溢れている。よく整地された河原ががらんとしていて、虚しかった。

 JR山手線はそれなりに混んでいて、渋谷の駅にも人はいた。午後から雨が降る予報だった。空は午前中と比べたら、雲が厚くなっている。雨も少し落ちてきた。窓の開けられた電車に雨の飛沫が僅かに入ってくる。
 乗客は9割以上マスクをしていて、8割くらいスマフォをいじっている。会話を交わす者はいない。

 早めに会社をあがらせてもらう。在宅で仕事をする妻、きっと仕事になってないだろうと思う。駅前の公園で懸垂を10回だけして、家へ向かう。

『ザ・プッシュ』 トミー・コールドウェル 白水社

 昨年話題になったアレックス・オノルドの『フリーソロ』。命綱をつけずに高さ1000m弱の垂壁の壁を登る。フィジカルとメンタルが完全に混ざり合った瞬間にだけ成功ができる。撮影隊の存在が彼を追い詰め、一度は失敗する。それほど難しいセクションでもないところで、彼は足を止め、助けを求める。撮影隊が彼を煽ることはない。失敗はすぐに死に繋がる。彼らは一度挑戦を諦める。失敗のイメージはそう簡単に拭い去れない。

 トミーコールドウェルの『ドーンウォール』はオノルドとはまた別のクライミングの一面を見せる。当時フリークライミングが不可能と言われた「ドーンウォール」。
※フリークライミングは自分の身体のみで登ることで命綱とそれを支える道具しか使わない。

 クライミングテクニックと道具が発達して、ビックウォールのほとんどがフリーで登れるようになった。次にオーバーハングした岩に目をつけて、手がかりは大きくても重力に逆らうような動きを強いる壁を登るような時代に入った。

 「ドーンウォール」は残された垂壁の壁だった。手がかりも足がかりもほとんどなく、つるつるとした岩肌を登る。垂壁の壁を誰がいち早くフリー化できるか競い合った時代から置き去りにされた巨大な壁。

 著者のトミーコールドウェルは、十数年かけて「ドーンウォール」をフリー化することに成功した。彼の輝かしい偉業は、彼自身につきまとう災難を乗り越えて達成された。
 彼がクライミング界でその名が知られつつある頃、キルギスタンの山で反政府軍に捕まり、人質とされた。反政府軍の監視役の一人を崖から突き落とし、逃げ出すことに成功する。

 精神的なダメージからようやく復活しクライミングも少しずつできるようになってきた頃、テーブルソーで左手人差し指を切断。エルキャピタルの数々のフリー化にとりかかる。クライミングパートナーでもあった最初の妻ベスと離婚。誰もが不可能というドーンウォールのフリー化にとりかかる。それから再婚。登攀のパートナーとなるケビンと出会う。フリー化は不可能(これが説明しづらい)と言われたドォーンウォールの岩を登り切る。初めて取り掛かったから6年。6年間同じ箇所で失敗を繰り返しして。

 不可能と言われたことを成功させた、というと、クライミングのことを知らないとあまりピンとこない物語のように思われるかもしれない。しかし、彼の感情的な側面と不可能と向き合う精神の物語は、困難と向き合う人々の胸に必ず突き刺さる。
 そして、彼が鋼の人間ではなく、生身の人間であることが、読み手に理解された時、その異業がとんでもないものだと、きっと気がつく。

 もうダメ、眠い。もう眠ろう。

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