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健常者である私のこと

2020年5月12日
『ありのままがあるところ』(晶文社) 福森伸
『ザ・プッシュ』(白水社) トミー・コールドウェル 堀内瑛司訳

小さな頃、ちょっと変わってる子だったと思う。友だちがプールで遊んでいるなか、一人だけ炎天下のグラウンドをずっと走っていたし、周囲がビックリマンチョコのシールだけ取って捨ててた頃、雑草の根っこや葉っぱを食べて遊んでた。変わった子ではあったけど、小中高大と進学、卒業した。

一方で、障害者と言われる人がいる。彼ら、彼女らは、変わってる子、という言われ方をあまりしない。ダウン症や自閉症、発達障害、知的障害、精神障害、身体障害、様々な呼び名があるけど、それらは病名でよばれる。その子の性格や性質のように呼ばれない。
児童館に通う頃、同じ歳の子に発達の遅い子がいた。あまり言葉はしゃべらず、あーあー、とばかり言っていた。みんなでよく遊んでいたが、幼な心に周りと少し違う子、という印象があった。彼はこのまま小学生になれるんだろうか、と思っていた。彼は小学生にあがる年に引っ越してしまった。交番の駐在員だったので、近くの学区を転々としていた。3年くらいまではどこの小学校に行っているかみんな知っていたが、それ以降、分からなくなった。なにしったべね、と友だちと話した。スーパーで見かけたという人もいた。
中学生3年くらいだったか、誰かが彼の連絡先を入手して遊ぶことになった。再会した彼は地元で一番の進学校を受験すると言っていた。私たちの中で誰よりも頭がよくなっていた。
一方、成人になっても変わらない子もいた。小学校に入学した頃、その子は小学4.5年だったと思う。女の子だった。それ以外はあまり覚えてない。登校班が一緒だったように思う。記憶が違うかもしれない。
小学校低学年の頃の印象は、少し変わったお姉さんだった。高学年になり、中学生になると、彼女は知的障害者だということを知る。彼女は同じ中学校に通わなかった。市の違う学校へ通った。
道を歩いていると、窓ガラス越しに手を振ってくれていたのに、いつのまにかその姿も見なくなった。大学に入学すると一人暮らしをはじめた。地元から離れると関心が薄れていく。今を生きるのに必死だったのだろう。そういえばあの子、何してるんだろうって、思い出すこともあるにはあった。あるだけだった。

大学時代はやりたいことをやった。周囲がサークルだ、合コンだ、彼女だなんだと遊んでいる最中、走ってばかりいた。寝袋を背中に背負って、200キロを走った。一人で。卒業旅行も一人、自転車で日本を半周した。これも野宿だった。雨も雪も降った。寒さに感覚が麻痺して、尿を漏らしたりました。
卒業したら、ちゃんとした大人になろう、と思っていた。上京したものの就職がスムーズに決まらなかった。当時、パチンコはお金になった。一日中パチンコ屋へ行き、お金を稼いだ。収入は良かった。けど、ちゃんとはしてなかった。ちゃんとした人になりろうと、パチンコをやめた。収入が3分の一になってしまうが、アルバイトをはじめた。アルバイトから今の職場に拾ってもらった。就職をしたころから走ることをやめた。学ぼうと必死だった。ちゃんとした大人になるんだ、ちゃんとした社会人になるんだ、と。

クライミングのドキュメンタリー映画『ドーンウォール』は、ドーンウォールという岩場のフリー化に6年の歳月を費やしたトミー・コールドウェルの物語だ。彼は6年間、同じ場所で失敗を繰り返していた。6年間同じ場所で失敗するということが想像できるだろうか。『鬼滅の刃』の竈門炭治郎が大岩を切るのに際した期間はたかが半年だ。半年でも私はものすごく感動した。だが、トミーに言わせれば、半年間しか不可能と対峙していない。6年間、不可能と対峙することがどれほどのことか、クライミングを知らなくてもきっとわかるはずだ。きっと無意味だ、不可能だ、とさんざん言われたはずだ。

『自然は導く』を読み終えたので、『あるがままがあるところ』を読みはじめた。『あるがままがあるところ』は鹿児島にある障害者向け支援組織、しょうぶ学園施設長の福森伸さんが書かれている。冒頭はじめにのエピソードに穴を掘り続ける青年の話が載っていた。聞き覚えがある。記憶を遡り、そのシーンがなんだったろうかと探る。最近子供とよくみる『鬼滅の刃』だっただろうか、『ワンパンマン』だっただろうか。違う、実写だ。そうだ、トミー・コールドウェルだ。6年間不可能と対峙しし続けた男、トミー・コールドウェルだ

トミー・コールドウェルの自伝『ザ・プッシュ』もまた、庭に穴を掘るシーンから始まる。彼は友だちが「セサミストリート」を見ている時、遊園地に行って遊んでいる時、穴を掘り続けていたらしい。

数年前、妻との仲が最悪になったことがある。結婚したからちゃんとしよう、子どもができたからちゃんとしよう。ちゃんとしようとしているのに、いっこうにちゃんとできない。ちゃんとできないかど、ちゃんとしようとしているので、できない自分を責める妻とやろうとする自分の気持ちで嫌になった。
ちゃんとちゃんと、ちゃんとちゃんと。
それで思った。もうちゃんとなんかしない、って。ちゃんとしなくなってから、仲は良くなった。相手がどう思ってるかは知らない。何せちゃんとしてないから。ちゃんとしてないので、相手のことをあまり考えなくなった。まず、自分のことを。それからついでに相手のことを考える。自分のことを考えれば、自ずと家族のことも考える。ついでに相手のことも考えると、二重に相手のことを考えていたりもする。コペルニクス的転換!そりゃ、そんなんだ。

2人は穴を掘る。ずっと穴を掘る。周囲の声なんかお構いなしに。

ちゃんとしなさい、という人の声は、どこからやってくるのだろう。
ちゃんと、できないのにちゃんとしないといけない。確かにおかしい。でもちゃんとできなくても、ちゃんとしようとしていたら、がんばったで賞が昔はもらえた。よく頑張ったね、とほめてもらえた。だから、ちゃんとできなくてもしようとしてきた。
しょうぶ学園もかつてはそうだったようだ。ちゃんとした器を作るためにひかれた線にのっとって削ったり、ちゃんとした刺繍を作るためにまっすぐに刺繍を作らなければならない。ちゃんとできないかもしれないが、ちゃんとしようとすればいくつかはちゃんとできる。ちゃんとできればほめる。よくできたね、と。

彼らには、できないことを克服しないといけないという理由がまったくない。なのにどうして私たちはがんばらせて私たちの意図する目的をやり遂げさせようとしているのだろう。できないことができるようになるのが良いのだという考えがぐらついてきたのは確かだ
『あるがままがあるところ』 福森伸

ずっと、心の中にあったちゃんとした大人、は単なる甘えなのかもしれない。ちゃんとすれば褒められる、ちゃんとすれば好かれる。周囲の目が気になり、本質が見えなくなってしまう。ちゃんとってなんだ。

目的を達成させるために、周囲の声から耳をふさぐ、トミー・コールドウェルも、目的など鼻から存在しないしょうぶ学園の利用者もやっぱり同じだ。同じように穴を掘ったのだから、本質が変わることなんかない。

健常者と障害者を本書ではよく比べている。
私たちは、健常者で彼らは障害者であることは、この社会のシステムが存在する以上、仕方のないことだと思う。彼ら、彼女らがが変わった子くらいの幅で語られるようになれば、物事の到達しうる幅は増える。
エクストリームスポーツの競技者たちは、ちょっと彼ら、彼女らに似ているきがする。骨が折れてても、命が危険にさらされていても、大丈夫、という。なぜなら、大丈夫だから。そして、大丈夫じゃないときは、些細なことで挑戦をやめてしまう。風が吹いているから、何となく無理だから。
エクストリームスポーツは明らかに人間の可能性を広げた。不可能と言われたことをこの数年でいくつも可能にした。メジャースポーツのマラソンですら2時間を切って走れるようになった。
彼らはたいてい、変わった子だった。もしくは、病名を与えられていた。

エクストリームである以上、普通もある。普通の大地にエクストリームが成り立つ。周りの目を気にしてちゃんとできるなら、それに越したことはない。普通は最強だ。最も尊ぶべきだ。でもエクストリームは最強だ。やっぱり尊ぶべきた。そうさ、人間は結局最高ってことだ。
だから誰のことも忘れんなよ、と思いながら『あるがままがあるところ』を読み終える。きっと、どんどん忘れていくかもしれないけど、誰かを思う感情は体の記憶にきっと残るから、そういうものに敏感でありたい。

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