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あちら側とこちら側。

2020.5.27

ゴールデンウィークが終わった頃から体調が優れない。上手に走れないので少しイライラする。登ってもないので余計そう感じるのかもしれない。
うつ伏せで横になっていると、長男が背中を踏みつけてきたので、マッサージをお願いした。ひとたび彼がマッサージをすると調子が改善される。神の子たちだ。
彼の手は暖かく、いつも汗をかいて湿っている。クライミングの時は滑り止めのチョークを大量に消費し、岩に張り付いているとすぐに岩肌には彼の手形が残る。
その温かな彼の手のひらは、私の固まった背中を解きほぐしたみたいだ。冷え性で乾いた手足に血が巡るのを感じる。神の子たち。
息子を褒めちぎってやった。

Twitterの日本のトレンドに「死亡率95%超」が入っていた。どこかでまた未知のウィルスが発生したのかしら、と思いクリックすると京アニのニュースだった。

https://www.google.co.jp/amp/s/www.yomiuri.co.jp/national/20200528-OYT1T50182/amp/

高校時代、走っても走っても足が速くならない頃(今もそうだけど)、足が速い子やかわいい女の子をみると死にたくなったし、死んでしまえばいいと思った。なんで彼らと、何のために同じ世界に住まなくちゃならないのだろう。どっちかがいない方が正しいんじゃないか、その方が健やかなんじゃないか、進化論はそのはずなんじゃないのか、と。
妬み、嫉み、僻み。そういうものに頭が支配されてもなお、今のところ運が良く、死ぬことも人を殺すこともなく日々が過ぎた。人を奈落へ突き落とすようなことさえせず、生きてきたと思っている。もしかしたら知らずに傷つけたかもしれない。
京アニの容疑者とと私を隔てるものはなんだろう。

『20XX年の革命家になるには スペキュラティヴ・デザインの授業』で知ったのだが、ユーゴスラビア出身のアーティスト、マリーナ・アブラモヴィッチは、パフォーマンス〈Rhythm0〉において、ハサミや口紅など72個の道具を置いた部屋に腰掛け、「私を自由にしていいですよ」と6時間、観客に身体を晒した。観客は彼女の服を引き裂いたり、傷つけ、その血を飲んだりなどの行動に走った。彼女の頭に銃を突き付けた人も出た。(別の観客が止めて殺されることはなかった。)
6時間後、血だらけの彼女が椅子から立ち上がると、観客はみなそこから逃げ出した。
たまたまそこにいた人々は殺人犯予備軍だったのだろうか。たまたま、凶悪な人間がそこに集まっていたのだろうか。
ミルグラムのアイヒマン実験やスタンフォードの監獄実験でも同じことが起きる。
人は人を殺せる。とても簡単に。私は殺人犯とほとんど変わらない。変わらないのに、<正しく>生きてこれたのはどうしてだろう。行きたく答えは、たまたま。ランダム戦略。たまたま私は人を殺さなかったし、たまたま生き続けた。
一方で、だからなんだ、とも思う私もいる。あいつは人を殺したのだ、私とあいつは全く違う。人を殺した人と殺していない人だ、と。
彼と私は彼岸の端に向かいあって立っている。手を伸ばせば届くくらいの距離。私は彼方へ行ってしまえる、という恐怖と不安。彼方にいる彼をみて、こえてしまったんだな、と蔑み非難する私のうちなる声。
この足元に引かれた境界線は、果たして本当の善悪の彼岸なのだろうか。もしそうだとしたら、第二次世界大戦以後の世界のほとんどは、彼方側にしかない。私ももちろん例外なく。

思いがけず、読売新聞のニュースは良かった。
私というものに執着しなければ、もっと周りは見えてくるのかもしれない。「他人の私を全力で治そうとする人」はきっと、たくさんいる。たくさん出会っている。彼らが私を此方側にとどめている。彼が引いた善悪の彼岸が、社会が引いた彼岸に近づいてくれたら、うれしい。それが本当の善悪の境界線じゃなかったとしても。もはや、善悪の境界線なんかないんだよ、と問う行為は、第二次世界大戦以降、野蛮な行為になるはずなんじゃないだろうか。

『囚人のジレンマ』を拾い読みしながら『量子力学と私』、『ご冗談でしょう、ファインマン先生』を読んでいる。アドルノの「アウシュビッツ以後、詩を語ることは野蛮なことである」という言葉が離れない。原子力爆弾が物理学や数学とどう結びつくのか、私は知らない。知っているのは、物理学者と数学者たちが集い、ロスアラモスという地で核兵器を作ったということだけ。その兵器は、1946年に広島と長崎に投下され、第二次世界大戦は終戦を迎えた。
戦後、ロスアラモスで核兵器開発にかかわった物理学者のファインマンと、戦争に負けて核爆弾を落とされた国の朝永振一郎は、同時期に物理学における大きな間違いを発見した。彼らはノーベル物理学賞を同じ年に受賞した。

ロスアラモスにおいて、数学者、フォン・ノイマンはファインマンに「我々が今生きている世の中に責任を持つ必要はない」と言った。
東京電力の電気をぜいたくに使う我々は、福島の原子力発電所に何ら責任を持つ必要はない。テクノロジーが想像を超えていく。SFの世界はこの数十年大きな技術革新は起きていない。現実はあっという間にSFの世界に追いつく。
私たちは戦後生まれであり、私たちの倫理は戦前戦中と全く違うものではなければならないはずだ。
もはや冷戦すら戦後の世代が、「今生きている世界になんら責任を持つ必要はない」なんで倫理観で生きているようには思えない。

緊急事態宣言が終わったからだろうか、電車にはたくさんの人が乗っていた。
昨年の今頃は、各地で猛暑日が観測されてなかっただろうか。異常気象に騒ぎ、熱射病に怯えていた。
はやく、山を登って、ビールが飲みたい。

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