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来年のことを言うと、赤鬼がなく。(長距離走者の孤独)

2020年4月20日

 今年の奥久慈トレイルレースの中止が発表された。仕方ない、と諦めれるほど大人じゃない。残念しかない。
 50kしかないけれど、制限時間は14時間ある。それなのに毎年の完走率は50%ほど。最大標高は700mにみたず、累積標高は4000mを超える。平均傾斜度は7.11%になる。

 2年前、初めて走った時は13時間かかった。去年は12時間かかった。いずれも最後の山越えは這うように歩いた。一歩進んで、立ち止まり、一歩進んで立ち止まりを繰り返す。1回目、2回目ともに満足できなかった。ゴールする時はつらくて、もう2度と走るもんか、と思うのだが、翌日には走りたくなる。もっとああできた、もっとこうできた、と。

 急な登り下りの細かい繰り返し。長く緩やかに登り続ける林道、沢と階段。トレイルレースの魅力と辛さを詰め込んだ50k。距離は決して長いわけではない。もっと長いレースになればもっと心身共に打ち砕いてくれるレースもあるだろう。しかし、まだ小さな子どもを持つ社会人としては、1日のレースがいい。ミドルディスタンスがいい。
 土曜日の夜と日曜日の朝、が私をレースに連れてってくれる。

 2019年9月にNHKの「奇跡のレッスン」を見た。録画をしていたもの。
 レナト・カノヴァ氏が日本の中学生にレッスンをする。ケニアを陸上大国にした伝説的コーチだ。
 当時、絶不調だった。3キロも走れない日が続いた。8月の月間走行距離は10キロにみたない。7月は20キロ、6月で40キロだった。走っても気持ち良くない。走るのが嫌になっていた。
足は重いし、呼吸もすぐに苦しくなった。
 この放送で全てが変わった。

 アフリカの選手に「20キロをキロ3分で走りなさい」と指示すると走れるところまで、キロ3分のペースで走る。20キロ走り切ることができなくても、走れるだけ3分で走る。
 欧米の選手は、20キロを走れるペースで走る。なるべくキロ3分に近いペースで、20キロを走り切る。

 レナト・カノヴァ氏は、アフリカの選手のように走ると早く走れることに気がつく。一生懸命走ることが大切、と言うことではない。スピードが大切であることに気がついたのだ。
 その名の通り、ランナーたちのバイブル『リディアードのランニング・バイブル』で長らく言われてきた、長距離走者は長い距離を走る方が良い、という考え方を変えた(厳密にはプラスアルファした)レナト・カノヴァ氏は長距離走者に短距離を走らせるトレーニングをさせる

 番組を見てからすぐに走った。走っている感覚が蘇る。何キロでもいい、とにかく速く走ろうと、走った。アドバイスする声を思い出しながら走る。まるで今までが嘘のようだった。走れる。気持ちよかった。

 10月にあった斑尾フォレストトレイル50kでは、トップ50にはいれた。他の選手の3分の1も走ってないだろう。まさかの走りだった。
 11月の青葉区民マラソン10kmレースでは、年代別10位でフィニッシュした。最後に競り負けたのはやはり走り込み不足だ。
 12月の川崎国際EKIDENに会社の方と出場。1区10kmを38分台で走ることができた。明らかにパフォーマンスが上がっていた。

 早く走れると楽しかった。今まで50kmだった月間走行距離が100kmまであがる。
※フルマラソンを走る人は200kmくらい走るけど、他にもやりたいことあるからそんなに走れない!
 走れる体ができていく。1月に息子と二人で静岡の有度山ロゲイニングに出場。タイムオーバーをしたものの終始楽に走れた(40キロくらいだったので、むしろ小学生の息子がすごい!)

 さあ2月のリレーマラソンで1キロ3分10秒台を目指そう、スピードアップしようと思ったところにコロナウイルスが忍び寄ってくる。大会は直前で中止。
 3月に予定していた古河はなももマラソンも中止、ザブ3を狙いつつ3時間15分くらいでは走れるだろうと思っていた。
 4月のアドベンチャーレースも。そしてついには奥久慈トレイルレース50kも中止となった。

仕方がない、仕方ない。
ただ泣きたいくらい。泣いたっていいさ。泣いても中止は変わらないだろうけど。

『長距離走者の孤独』アラン・シリトー 丸谷才一訳 新潮文庫

二つに一つなんだ。レースで勝つか走れるだけ走るか。俺にはその二つができることがわかっていた
『長距離走者の孤独』 アラン・シリトー

 
 高校時代で競争から逃げた私は、今なお、二つに一つしか レースに勝つことだけは頭から忘れるんだ、と言い聞かせてここ最近、走ってきた。競争や順位が怖い。息が詰まりそうになる。順位に引きずられて走ることが嫌になってしまうような気がするし、実際、そうだった。速いやつは速いし、遅いやつは遅い。
 だから、二つに一つ、走れるだけ走ることに集中しようと

 『長距離走者の孤独』のスミス少年は、盗みを繰り返す非行少年だった。ずっと捕まらずに盗みを繰り返していたが、ある日ドジをしてつかまってしまう。
 少年院にいれられた彼は、長距離走が速かった。彼はクロスカントリー競技の大会に出場しろと、所長に言われ、早朝の練習を行う。早朝、彼は自由に走ることができる。
 
 独走する大会、競技場のゴール前、彼は急に立ち止まり、ゴールラインを跨がない。競技場からは大きな声がする。歓声が、怒号が。ヘロヘロになって必死に走る2位の選手が彼を追い抜き、一位でゴールする。

いつも、『長距離走者の孤独』を読むと、中原中也の『酒場にて』という詩を思い出す。

ほがらかとは、恐らくは、
悲しい時に悲しいだけ
悲しんでられることでせう

 新潮文庫の後ろの紹介文には結末が書かれていた。それはないでしょう、と思いながら、書いてるしいいやって思って書いた。そう、彼はゴールで足を止める。たぶんそれは、勝利ってものの本当の意味なんじゃないかって思う。
 
ちなみに、収録されている『漁船の絵』も大好きで、いつかこれも紹介させてもらうつもり。

眠くて、眠くて、ろくでもない。
夜の帳が上がったから、書き直した。
朗らかな私は、レースの中止をやっぱり受け入れられずに悶々とする。仕方ないさ、って笑えるくらいなら、そいつは、それまでってこと。朗らかに悲しもうよ、もしも、奥久慈トレイルレースに出る予定だった人がいたなら。

来年のことしかもう考えない。
来年は10時間きって走ってやるさ。

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