ジョン・ハーシー『ヒロシマ』(増補版)

 ここのところ、散発的に広島の原爆投下に関する書籍を読んでいる。

 J・リフトン『ヒロシマを生き抜く』(岩波現代文庫)を開きながら、原爆体験者の手記を自分が読んだことがなく、そのため、体験談をまとまった形では知らないことに気づいた。広島で育った者は誰でもそうだけれど、平和教育の一環として、私の時代には、当時まだ存命だった被爆者から体験談は何度も聞いているし、また、子供用の本や映画、紙芝居と言った形では何度となく見ているので、知っているといえば知っている。ただ、それらは、体験談は時間の制約があったし、本や映画は子供用のものでもあったし、非常に断片的なものだった。

 正直にいうと、井伏鱒二の『黒い雨』も読んでいない。(模試や入試などの教材で使われた箇所を部分的に読んだのみだ。) なんとなく読んでいないというより、意図的に敬遠していた。子供の頃に聞いた原爆の体験談が、あまりに辛くて悲惨だったので、それをさらにえぐるような物語を読みたくなかったのだ。

「伝えることが大事」とは当たり前のように誰でも言うけれど、負の歴史は、知る方も心理的な負担が大きく、時には知る側、聞く側のトラウマにもなってしまうものだから、あまりに気安く「伝えることが大事」と言うのもどうなのだろうかと思うことは多い。生きていくことは、ただそれだけでも、少なからず心理的に大変なものなのだから。

 今回、レフトンの本に触れられていたハーシー『ヒロシマ』を読んでみる気になったのは、外国人のジャーナリスト目線なので、当事者の体験談より距離が取れていて読みやすいのではないかと期待したからだった。学者であるレフトンの目線でまとめられた内容を読む前に、より直接的な経験を記してあるだろうハーシー『ヒロシマ』を読むことにした。日本語の翻訳は法政大学出版会から出ているが、第三者からの視点であったとしても、日本語だとリアルすぎて読み進められない気がしたから、Kindleで購入できる英語原文で読むことにした。日本語で読むよりは、時間がかかったが、結果として、英語原文にしてやはり正解だった。

 広島育った私にとって馴染みのある地名や場所が多く出てきて、地名を見ただけでその場所の空気感が立ち上ってくる。(私も子供の頃、本文で紹介されるいる教会とは違うが、長束にある教会に通っていたことがある。) 第三者であるハーシーの視点を通してあること、また、心情には深く立ち入らないジャーナリストらしい良い意味で即物的な描写、そして、地名表記がアルファベットになっているため自分の個人的記憶と切り離せるといったことのおかげで、最後まで読み通すことができた。それでも、原爆投下直後の被害状況の描写では、目を逸らしたくなる場面があった。

 ピュリツアー賞ジャーナリストであるハーシーは、GHQ占領のもと厳しい情報統制下に置かれていた広島の被害の実情を最初に伝えた。以下の記事などに経緯が書かれている。

 『ヒロシマ』がThe NewYorker に掲載されたのは、1946年、原爆からわずか1年後だ。とは言うものの、全てが瞬時に広まるSNS時代からすると、あれだけの出来事が情報統制できていたということも、信じられないような気もする。ハーシーは、「人間を描く」ことをテーマとしてこのルポルタージュを書いたそうだが、確かに、驚くのは、増補される前の最初に書かれた部分だけだと決して長くはない文章なのに、見事に人間が立ち上がっているところだ。内面を詳しく描写しているわけではないのに、それぞれの個々の人のありようを第三者的描写の文章でこのように描き出すことができるのかと、背筋が伸びるようだ。

 また、この本には、原爆投下後の行動についても詳しく記されている。そこで初めて気づいたのだが、原爆投下前後、焼け野原になった広島のところまでは、よく私たちの意識にのぼるが、それからの復興、というよりは、生き延びるための努力については、関心が薄いということだ。本文の中では、原爆投下後、生き延びた被災者が命をつなぐために、防空壕に収蔵していた食べ物や資産を回収に行ったことなども詳しく記されている。家庭菜園に植えられていたカボチャやジャガイモが原爆後の(おそらく火災の熱風によって)、ベイクドカボチャやポテトになっていたものを食べたエピソード(しかも美味しかった!)などは、非日常の中での日常を描く秀逸な場面だ。当たり前だが、焼け野原でも腹は減るのだ。身近に死体が溢れていても、生き残ったものは食べなくてはならない。

 数日後には救援や支援が入りはじめ、ひと月後には銀行が仮店舗で再開されていたということ、そこに被爆者が防空壕から取り出したお金を預けに行ったこと、その後の建物の再建や生活の再建にどれくらいお金が必要であったか、それを工面するためにどのような努力があったのか、こうした金銭的・物質的な側面もハーシーは詳しすぎるほど描写している。これらは、生きるためには必須の基礎条件であると言えるが、少なくとも、私の意識にはあまり上っていなかった。私たちは、身体的被害と内面にばかり焦点を当てすぎていたのではないか、と思わされる。

 増補版では、ハーシーが1985年に広島を再訪し、同じ人物を追加取材した後日談も含まれている。このおかげで、取材対象者となった被爆者のライフストーリーを知ることができる。被爆体験だけが全てではない、かと言って、その影が消えるわけではない。原爆経験に対して、人それぞれ濃淡のあるライフストーリーを描くことによって、原爆が個人の人生と生活にどのような影響を及ぼしたのかを感じることができるようになっている。

 印象的なのは、増補版の最後に、Tanimoto氏の視点を通して、広島の反核運動とその内紛について冷ややかに触れられているところだ。広島から離れて久しいので、今がどうなっているかはわからないが、私が広島で暮らしていた時の空気感はまさにこうだった。少なくとも、私のような反核運動や政治運動とは縁遠い暮らしをしていた若年層にとって、これらの運動は身近に感じるものではなかったし、近寄り難い(近寄ると喧騒に巻き込まれる)ものだった。

 戦後間もない時期に、原爆乙女の救済活動を行なっていたTanimoto氏が、やがて売名行為であると批判され、そうした活動から距離をとる経緯なども、状況の歯車が狂い始める様子がまざまざと見えてくるようだ。本書に描かれる、谷本氏の原爆投下時の救出作業からその後の教会再建から救済活動までの一連の動きは、尋常ならざるものがある。アメリカの著名人と繋がり、NBCの番組に出演する経緯なども、過剰演出された劇画を見るようだ。そして、このやり過ぎ感が、これまた過剰な注目を集めるとと同時に、疑念と反感を買ったのであろうとも思う。動きが大きくなれば、振る舞いに隙もできる。付け入る人も出て来れば、奔流のような出来事の渦の中で、必要な段取りや手続きに手ぬかりも出てくる。こうした様々な要因が少しずつ積み重なって、あるときに、破局的な場面が突然にあらわれる事になる。それは、唐突のアクシデントのようにも見えるが、一方で、必然の帰結とも言える。おそらく、原爆投下後、復興へ向かう広島に吹き荒れたに違いない無数の狂騒の一断面であったのだろう。その狂騒を身をもって引き受ける個人を淡々と描写してある。

 ハーシーは、作品を持って語らせることを好み、インタビューは生涯を通じてほとんど受けていないと、上記のBBCの記事にあった。そうした態度は描写からも感じられ、好感がもてる。

 私たちは、大きな出来事に遭遇したときに、そこに人がいた、というあまりに当たり前のことを、あまりに容易く忘れてしまう。それを、1946年という早い時点でドキュメンタリーにして、世界に届けていた人がいた。それにもかかわらず、私たちは、その当たり前のことをまたしても忘れる。気づき、忘れ、思い出し、また忘れ、思い出し…、行きつ戻りつを繰り返していくのが「伝承」なのかもしれない。

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