読書感想文 志賀賢治『広島平和記念資料館は問いかける』(岩波新書)

2020年12月に発売された本著は、2019年に大規模改装された広島平和記念資料館の足取りがわかりやすくまとめられている。歴史的な災厄をどう伝えていくかという観点から、現場の実際を十分に抑えた上で、歴史的経緯とその意義をたどっていくアクチュアルな問題提起がなされている。

著者の志賀賢治氏は広島市役所を退職後、2013年に平和記念資料館(原爆資料館)の館長に就任し、3回目となる大規模展示替えを担うこととなる。元行政職の方だけあって、行政の機微にもさすがに詳しく、資料館の動きに対する考察は言語化されていない面も含めて、役所内の事情に通じた人ゆえと感じる。

私は本書を知ったのは、昨年12月に行われた「ICRP原子力事故後の復興に関する国際会議」の私がセッションチェアを務めた「セッション3.4経験の伝承に関するフォーラム」に志賀氏においでいただいた際だった。セッションの組み立ては、チェアの裁量である程度決めることができたので、原発事故にまつわる記憶の伝承の経験を複層的に立ち上げられないかと思い、広島での経験のある志賀氏にお話いただくことをお願いした。

念頭にあったのは、福島に昨年開館した伝承館だった。この伝承館については、報道などで批判も多くなされていたが、自分自身がどう考えればいいのかわからないというのが正直なところだった。こうした震災経験を伝承する施設は、国の方針で各県になかば自動的に設置されることになっていたし、また、各自治体によっても設置されている。無数の伝承施設それぞれには、それぞれの設置理由や思い入れも価値もあるのだろうとは思いつつ、しかし、10年目にして氾濫する記憶の伝承施設に、記憶を伝承するとはいったいなんなのだろうか、との思いが湧き上がってきていたのだった。

自分が判断に迷った時には、まず先行事例を参考にしてみる、というのが、定番だ。負の記憶の伝承といえば、日本には広島がある。75年の時間を経て、広島の記憶の伝承について、どのように対応してきたのだろうか。自分が広島出身で、広島平和記念資料館が馴染み深いこともあって、知人を通じて、志賀さんに発表をご依頼したのだった。広島とベラルーシのチェルノブイリ博物館、福島と、経験を複線化することによって見えてくるものがあるだろう、との思いがあった。結果としては、この狙いは成功だったと思う。この時の議論の内容は、ICRPの会議抄録集にレポートにして寄稿してあるので、そのうちにお目にかけられる予定だ。

追記:上述のレポートが公開された。公式に受領されたのは英語版だけれど、日本語版も、researchmapにPDFにして公開したので、以下にリンクする。
[英語]"How to overcome the difficulty of talking about the experience of a nuclear disaster"
https://doi.org/10.1177/01466453211015397
[日本語]「原子力災害を語ることの難しさをどのように乗り越えるか」
https://researchmap.jp/Ryoko_ANDO/published_papers/33825669/attachment_file.pdf

内容:20世紀に開発が始まった原子力技術の発展にともなって、人類は、それまでの歴史上経験することのなかった原子力災害にも直面することとなった。この災害をどのように理解するかは、いまだ共通の認識を持つに至らず、特有の語りにくさを生じさせている。広島、チェルノブイリ、福島の3つの異なる原子力災害に直面したパネリストに、語りにくさをもたらすもの、それを克服するための方法について議論していただいた内容を報告する。

広島出身の人間は、子供の頃に平和記念資料館には何回かは必ず訪れている。だから、なんとなく自分はよく知っているのではないか、と思っていたのだが、そんなことはなかった。本書に書かれてあることは、多くが私にとっては新鮮な驚きだった。まずは、平和記念資料館ができた経緯だ。1955年(原爆投下後10年目)にオープンした資料館の初代館長には、原爆投下時、広島文理科大学地質学鉱物学に所属していた長岡省吾氏が就任した。長岡氏は、原爆投下の翌日、職場に向かった広島市内で花崗岩の変性を見て、投下された爆弾が通常の爆弾ではないことに気づいたのだという。その後直ちに、彼は個人的に、被爆遺物の収集を始めたという。変人扱いをされながらも、溶けた瓦やガラスや石といったものを収集し、それが、当時の広島市長であった浜井信三氏に知られることになり、最初は公民館の一室に陳列するところからスタートしたのだという。

長岡氏の存在は、不思議なくらいに、私はまったく知らなかった。本書を読むと、長岡氏は文書を書くのがあまり得意でなかったようで自分でほとんど文章を残していないことが一つと、もう一つは、長岡氏が退館する時に広島市との関係がうまく行かなくなったという事情があったと記されている。市側には、トラブルを伺わせる形跡は残されていないようだが、少なくとも、長岡氏側には市側の対応にはっきりと不満を語っていたとのことで、長岡氏逝去後も、遺族と広島市(資料館)とは没交渉であったことが触れられている。

長岡氏の存在が強く私に印象を残している理由はいくつかあるのだが、大きな理由としては、こうした組織や施設の立ち上げの精神は、目に見えない屋台骨として、その後の精神的骨格として残り続けるのではないか、という気がしているからだ。どのような動きであっても、組織であっても、長く継続していくうちに、混迷することもあれば、行き詰まることもある。そうした時に、もっとも大きな訴求力のある指針となるのは、「設立の精神を思い出せ」である。それがあるとないとでは、舵取りを行っている上で、おそらく、大きな違いがあるのではないか。そんな気がしているからだ。

もっとも、広島平和記念資料館も、立ち上げから順風満帆であったわけではない。というよりも、むしろ、迷走の連続であったと言えるかもしれない。当初は、原子力の平和利用に関する展示が半数を占めていた、ということもそうであるし、1956年に「広島原子力平和利用博覧会」、1958年に「広島復興大博覧会」が開かれ、そこで原子力の平和利用について盛んに宣伝されていたことなども驚きであった。もちろん、これは自発的なものというよりも、1953年のアメリカのアイゼンハワー大統領の「アトムス・フォー・ピース」演説以降の原子力の積極民生利用方針に従ったものであり、アメリカ側としては(それを受けた日本政府としても)、被爆地広島から原子力の平和利用を宣伝できれば効果的である、という目論見もあった。そして、そのことは、政府のみではなく、広島の人にも抵抗なく受け入れられていたようだ。

ちなみに、原爆による放射線被曝の大きな後影響のひとつであった白血病の発病ピークは、被爆後6−8年、1951ー53年となっている。まだ被爆投下時の傷を抱えた人も多く存命していた時期に、こうした動きが積極的になされるという倒錯した状況を想像するだに目眩がしてきそうだが、一方で、自分が経験してきた震災後10年間の異様な空気感と照らし合わせてみると、既存社会を完膚なきまで打ちのめすようなカタストロフィックな災害イベントが起きた後の社会とは、このようにある種グロテスクとも見える狂騒状態になるものなのかもしれない、と得心もいく。

もうひとつ、このことからはっきりとわかるのは、原子力に関しては、政治的意図から無縁でいることは、極めて難しいのであろう、ということだ。これは、原子力に賛成か反対かという旗幟鮮明を求められるという意味だけではなく、双方に与しないという場合においても、そこに政治的な緊張感が必要とされるということだ。必ずいずれかの立場を求められる中で、どちらにも与しない立ち位置は、政治的なバランス感覚がなければ不可能である。そうでなければ、意識せずとも、必ずどちらかに「利用される」からだ。「利用されない」という意思も、またひとつの明確な政治性である。

平和記念資料館の展示は、1960年代になると、原子力の平和利用に関する展示を併設されていることに疑問が出され始め、67年にはこれらの展示は全て撤去されることになった。だが、その後の資料館の運営については、財源の問題もあり、また、資料保存や資料整理も行き届いたものとはいえなかったようで、本書の説明を読むと、私が子供の頃、つまり1980年代から90年代にかけて訪れた時期の、資料館の内情はこのようなものであったのか、と驚きを覚える。

2014年に始まり2019年に完了した大規模展示改修は、2003年から準備を進め、完了までに実に16年の年月を費やしている。その骨子は、広島が失ったものこそ重要であるという観点と、そして、数字ではなく人への被害、個人の悲しみや苦しみ、無念さを表現するという点にある。

1年前、広島に帰省した折に、平和祈念資料館を訪れ、新しい展示を見てきた。実に驚くほど、本書に書かれている狙い通りの感想をもった。私以外にも、新しい展示を見てきた複数の人の感想を聞いてみると、これまた驚くほど同じ感想で、展示の狙いであったメッセージを見事に来館者に届けられていることに、感動さえ覚える。それだけ周到に企画展示内容が練られたということだろう。

75年を経て、展示される内容が、原爆投下前の日常と普通の生活を送ってきた個々の生活に焦点をあてたものであり、それがいまこの時代の人々の胸を打っている、ということには不思議な感覚を抱く。それは、原爆によって無惨なまでに切断された「廣島」と「広島」の時間が、初めて接続されたのかもしれない、とも思うからだ。

広島で育ってきた自分自身、不思議なほどに、原爆投下前の広島のことに思いをはせることはなかった。もちろん、戦前の広島のことは知っていた。だが、それはまるで異次元の別世界であるかのように、記憶の別のところにより分けられていたように思う。そして、どうやらそれは、私だけのことではなかったようだ。他の広島に関連する書籍を読んでいても、同じような記述を見つける機会がしばしばある。そして、私も自分が忘れていた、ということに成人してから気づいたのだが、同じように感じていた人はきっと多くいたのではないだろうか。75年を経て、人々は廣島の記憶を思い出した。戦前の記憶を持つ人がほとんどいなくなってしまったから、逆に、その重要性に気づいたのかもしれない。

ふと、こんな風にも思う。もしかすると、原爆投下によって狂った磁場が、ようやく平常に戻ってきたのかもしれない、と。私が暮らしてきた広島は、表面上は全く普通の都市だった。そこに何か特別なものは何ひとつない、そう思って育ってきた。だが、水面下の、平穏な生活の舞台としての磁場は、あの日、8月6日を境に大きく狂い、それからずっと、磁場はどこか異常なままでいたのかもしれない。75年を経て、針先を定められずクルクルと回り続けていた方位磁針が、ようやく正確な方向性を指し示し始めた、そんな気がしている。

本書を読んで感じるのは、「記憶」が、いかにダイナミズムに富み、またアクチュアルなものであるかということだ。「記憶の博物館」は、静止した過去の遺物を収めるのではない。いま、この時代の我々が、記憶をどのように捉え、解釈し、また未来に繋げようとしているのかを、問い返すものである。

この問いは、福島の伝承館にも同じように向けられるべきだろう。震災と原発事故からわずか10年に過ぎない。我々は、まだ、大きく狂った磁場のただ中にいる。そこで方向を見出すのは困難な作業であり、おそらくは、今後もみっともなく迷走を続けるのだろう。だが、それらも含めて、同時代の我々の姿なのだ、と解すべきだろう。混乱した展示は、我々自身の写し鏡だ。65年後、やがて広島のように、私たちもまた唐突に記憶を取り戻すのかもしれない。平常だった頃の、間延びした、懐かしくあれども、なんのおもしろみもない、あの暮らしの。

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