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五輪と震災

 五輪関係のテレビは一切遮断するつもりでいたのだけれど、開会式くらいは見るぞと楽しみにしていた様子の夫がテレビをつけるから、ぼんやりとテレビを眺めていた。もともと過去の五輪の開会式だって、ほとんどまともに見てはいない。ただ北京五輪の時の、上昇気流に乗った国家の総力を注いで作り上げた開会式は、鮮烈に記憶に残っていた。それと比するのは酷とはいえ、ようやく体裁を保ったとも言い難いセレモニーだった。表情は見えないながらも顔を引き攣らせながら、なんとか褒める場所を探して会話を繋ぐようなアナウンサーの解説を聞き、これが2011年3月11日の到達点なのだろう、と画面の見えない寝室に移動した。やがて気づけば、夫もテレビを消し、いつものようにアマゾンプライムで映画を見ていた。

 この先、行われる競技を見るつもりもない。アスリートには罪はない。それはわかっている。けれど、開催が決定してから華やぐ首都とそのニュースをうめくような思いで見続けた記憶が生なましくよみがえり、平常心ではいられない。もしパンデミックがなく、予定どおり開催されたとしたら、一ヶ月以上の長きに渡って、耐え難い責苦を味わい続けたのだろう。パンデミックは、私にとっては救いであった。

 五輪開催決定の一報を知ったときに、なんと取り返しのつかないひどいことになる、と思った。そのように思った理由は、バランスが悪すぎるという一言に尽きる。誘致した高齢の政治家たちが高度成長の夢を再び、と思い描いていたのは見てとれた。しかし、急速な少子高齢化が待ち構えている日本に、人口増加時代の高度成長を夢見るのは、あまりに時代錯誤であると思えた。加えて、あの大震災と原発事故から開催決定時には2年しか経っていなかった。2020年に完全に復興を終えていることは不可能だろう。大方は進んでいたとしても、10年後には取り残されている層が顕在化している時期だ。そうでなくとも暗がりに沈む取り残された層が、光り輝く五輪をどのような思いで見つめることになるのか、考えるだに恐ろしかった。光と影の相があまりに分離しすぎると、世界そのものに亀裂が入ってしまう。

 北京五輪の中国と同様、高度成長時代に突入する勢いに任せて成功を納めた1964年五輪と違い、斜陽に向かう2020年にあって、あるいは、日本はマネージ仕切れないのではないか、との思いもよぎった。(この手の直感的な予期はよくあるのだが、大抵当たる。ただし残念ながら、良い方の予期はほとんどないし、あったとしても当たらない。期待(願望)と予期を分離することが難しいからかもしれない。良い方は、予期ではなく根拠のある確信としてあらわれる。)

 この五輪がどのようなものであったかは、この先、多くの人たちが語るのだろう。私もそのなかにいるのかもしれない。いないかもしれない。今言えるのは、それがどれだけ予想外のものであったとしても、あるいは予期したとおりのものであったとしても、これが、紛れもなく今のこの国の姿であるということ。そして、もうひとつ、望んだわけではないけれど、これが否応なく震災から10年の節目になるのだろう、ということ。

 それでも、私たちはこれまでがんばってきた。
 そうは思わないかい?
 物音ひとつしない無人の国立競技場のグラウンドで、空を見上げて、ひとり、そう語りかけてみたくなった。 

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